十五 境界線

 ズッズッズッズ……。
 頭骨に響く音。背中や後頭部がごつごつとした地面に擦れているのが分かる。誰かがボクの両足を持って引き摺っている。顔も節々も全身が痛む。薄らぼんやりとした視界に闇夜が広がる。これは夢なのだろうか。月が夢想の飾りの様に見える。
 ボクは朦朧としながらバージの灰色の目を思った。倒れる間際に見せたあの目を。夢ではない。まやかしだったらどんなに良かっただろう。今はただ、眠る。全てを封印してしまおう。どんなに現実を塞いでも何も変わりはしないのだから……。
 ボクは再び目を閉じた。何もかも記憶から掻き消す様に。
 ズッズッズッズ……。という振動と音だけが暗黒の頭中に木霊した。
 
 現実は残酷にもボクを目覚めさせる。つんとした刺激臭がこめかみまで響き、水に打たれた様に飛び起きた。
 しかし、頭上に向けられた両手は鎖に繋がれ、手首には頑丈な枷がしてある。そのせいで、無情にもマットに引き戻された。
「なんだよこれ……」悪夢の始まりだ。
「外せよ!」
一頻り暴れてみたが、ベッドボードに括りつけられたそれはびくともせず、水面で蠢く昆虫の様に絶望が一気に押し寄せた。とうとう観念したボクは闇の中に点々と灯った蝋燭の明かりを順に見つめた。
そして初めて、闇の中にアンクーが居る事を知った。奴は蝋人形を連想させる不敵な笑みを浮かべ、ボクの行動を一部始終見つめていた。
「どういうつもり……」
 ボクは血の味がする乾いた唇から発した。すると、奴はゆらりと動き出し、近寄りながら言った。
「枷にはオレの術がかかっている。そう簡単には外せねえ。すなわち証は無用の長物。術を使おうものなら手首を焼き切ることになるだろう」ベッドサイドに腰かける。
「オレの許可なしに証は使わせねえ。それに背いた時はどうなるか。分かっているよな」
 奴の指が頬に触れる。ボクは引き攣った顔をそむけた。それと同時に顔面に激痛が走った。
「おいおい、綺麗な顔が台無しだぜ」
 そう言いながら顔を寄せて来る。そして珍しい何かを愛でる様に大胆に顔を撫で始めた。
「ファリニス、やっとオレのモノになる……」
 奴の吐息が耳元にかかった。ボクは怖気を感じながら震える声で言った。
「ボクはファリニスじゃない……」
 すると奴はボクの首筋に指を這わせながら囁いた。
「誰も言わなかったのか?おまえにファリニスの面影がありありと残っている事を。その目、その唇、眉を顰めた顔、何もかもが彼女のままだ。バージノイドはよく我慢したなあ」そう言い、くっくと喉を鳴らして笑った。
「だが、オレは我慢はしねえ。おまえを手に入れる。ファリニス……」
 奴は瞬く間にボクを跨ぎ、上に伸し掛かった。
「やめろ!ボクはファリニスじゃない!ファリニスじゃ……」
 抵抗した。痛む全身で。だけど、奴はボクの衣服を剥ぎ取り、平手打ちを食らわせた。
「やめろー!」
 それからは悪夢の一夜だった。身体に刻まれる消し去りたい感覚。そして、地獄の始まり。
 これは夢だ……ボクは何処へ行く……バージ……ボクは……。

 奥深い森。四肢が折れた子供。混濁した意識の中で助けを呼ぶ。
誰か助けて──
 丈高い木々の葉先に風が触れる。葉の擦れる音だけが木霊する。
 孤独だ。しかし、無数の目が少年を見つめている。
 妖霊の住まう森。それらが行く末を見守る。
「助けて……」少年は糸ほどの声で呟いた。そして、「生きたい」とも。
 彼は絶命するかに思えた。
 しかし、木々の狭間から一体の異形のモノが歩み出た。手には木の実の器を携え、その中には真紅の液体が波々と揺らめいていた。
 そのモノは少年に向かって言った。
──飲む。飲む。
 干上がった身体。ひび割れた唇。細胞が欲する。真紅の液体を。
 異形のモノは少年の身体を起こした。そして、口元に器を寄せた。
 それは生温い鉄の味がした。だが、少年は躊躇う事なく、まるで水を流し込む様に飲み干した。
 血が巡る。腹の底から生命力が湧き出す。口端から真紅の雫が零れ落ちたが、少年はそれを舐めとり、異形のモノを見つめた。
「ありがとう……」

 共鳴──
ボクはどのくらい眠っていたのだろう。みぞおちに鉛を埋められた様な重み。許されるなら永遠に目覚めたくなかった。だけど、いつだって現実はボクの思うようにはならない……。
 喉が渇いた。まず脳裏に過ぎったのがそれだった。悔しいけれど、この期に及んでまだ生きる事に縋っている。
 鎖は外されていた。ただ、証を覆う強固な枷で、力を失った腕はだらりと下がった。
 ボクはかつて着ていた寝間着を着せられていた。ここはファリニスの寝室。つまり、ボクの部屋だった。
 頭痛がする。開けられた鉄扉から漏れる湿った光と、やけに静まり返った空気がそれを助長させる。
 ベッドから両足を降ろして素足だと気づく。ひやりとした床。鈍化した神経にそれは刺激を加え、初めて空腹を感じた。
 調理場へ行こう。ボクは覚束ない足取りで部屋を出た。そして、出なければよかったと思った。
 屋敷は荒らされていた。鉄扉は傾ぎ、壁紙は破られ、そこここに調度品が粉々に砕けて散らばっていた。それは歩みを進める程に激しさを増し、調理場のある一階に辿り着いた時には、目を覆うほどの惨状に動けなくなってしまった。
 床には引き摺られた血糊の跡。壁には獣の爪痕が残り、飛び散った真紅の玉で一面が染まっていた。壊れた窓ガラス。落ちたシャンデリア。この全てが同志と妖霊との争いの跡だと思うと震撼せずにはいられない。
 ボクはその場から逃げ出したい衝動に駆られ、調理場へと急いだ。見知った屋敷は跡形もなく、奴はこの惨劇の館に一人で住みついていたのだと思っただけで悪寒が走った。
 石造りの調理場にはポンプで汲み上げる井戸水があった。ボクは震え上がるほどそれを飲み、ニコレッタが作った保存食の壺を無作為に開け、鷲掴みにして頬張った。
 すると突然、裏口から声がした。
「漸くお目覚めか」
 咄嗟に調理台のナイフを持って振り返った。そこには、開放された勝手口に縋って立っているアンクーが居た。
「意識が混濁したまま三日が過ぎた。その間、ちゃあんとお世話をしてやったぜ」
 奴はナイフなど眼中にないかの様に近寄った。
「寄るな!」
 ボクは更に両手を伸ばし、切っ先を向けた。
「つれないぜ」奴は芝居がかった笑みを浮かべた。そして「おまえが眠っている間、楽しませてもらった。何度も……」と、意味深な囁きを飛ばし、ボクを見つめた。
 その言葉が何を意味しているのか。蓋をしていた記憶が走馬灯の様に蘇り、奴の指先の感触が全身に這った。身悶える程の嫌悪と自虐。それに耐えられず、何もかも吐き出す様に、洗い場に嘔吐してしまった。
 笑い出すアンクー。
殺したい!殺したい!自分を!
 呼吸が荒ぶった。だけど、無意識に流れた涙を拭い、自尊心を失うものかと深く呼吸をしなおした。
 全てが奪われた訳じゃない。そうじゃない。ボクが殺された訳じゃない。しっかりしろ、翔平……覚悟をして来たはずだ。こんなこと、何でもない……。
 唇を噛み、振り返った。そして、自分の喉元にナイフを突きつけた。
「ボクを支配したつもりだろうけど、何も感じちゃいない。今度ボクに手を出したら、死ぬ!」
 奴は意に介さず近寄って来た。さあ、どうする?と言わんばかりに、勝ち誇った笑みを浮かべて。
「おまえが死ねば、民も同志もオレのモノになる。そうなると……暴虐の限りを尽くすことになる」
 ナイフを持った手が小刻みに震えた。悔しい。奴なら間違いなくやる。分かっている。もう、屈服するしか手はない。
 両手を下ろし、ナイフを離した。石畳にゴンといった鈍い音を立て、それは落ちた。
 途端に奴はボクの胸ぐらを掴んだ。そして、乱暴に揺すり、鼻先に顔を寄せた。
「貴様の本当の目的はなんだ。言え。何故、容易くオレのモノになると言った」
 真紅の眼差しがボクを射抜く。間近で瞳孔が開いていくのが分かった。
「民を……」唇が震えた。
「全ての民を解放する為……」
 次第に収縮していく瞳。奴は眉を歪ませ、腹の底から湧き上がるものを笑いに変えた。
「解放された民がどうなるか見ものだ。十分に楽しませて貰うぜ。貴様もオレと同類。やはりな」
「おまえとは違う!」ボクは顔を上げて叫んだ。
「ボクにはボクの使命がある。一緒にするな!」
「何が違う。世界を覆すつもりなんだろう?ぶっ壊せ。オレと共にな」
 そう言って、ボクの鼻先を舐めた。
「壊す為じゃない……」
そうだ。自由を手にする為。意志を取り戻す為に……──
 両手を握り締めて立ち竦むボクを奴は繁々と眺め、やにわに首根っこを掴んだ。
「書庫の扉を開けろ」奴はそう言いながら勝手口からボクを押し出した。
「何重にも術をかけやがって。おまえ自身を鍵にするとは、小細工だけは褒めてやるぜ」
 書庫まで引き摺られて行く。中庭は更に砂漠化し、草木一本生えてはいなかった。取り巻く靄だけが濃さを増し、じっとりと肌に絡みついて来る。
 奴は書庫の前にボクを放り出し、乱暴に手首を握った。
「解放の時だけは枷を外してやる。ただし、それ以外で術を使うことは許さない。オレとおまえの証は共鳴する。出し抜こうとしてもそうはいかないぜ」
「分かってる」
 ボクは淡々と返し、自由になった両手を扉に当て、鍵の術を唱えた。
「スリザズ」
 扉は開いた。むっとした古書の薫りが瞬く間に鼻孔に広がる。奴は重厚な扉を最大限に開き、中をぐるりと眺めた。ボクにとっては懐かしい、それでいて、あの頃とは全く違った視点で、円形の壁を見上げた。
 すると、奴は突然言った。
「妖霊の書を持ってこい」
 ボクの両肩は飛び上がった。奴の企みは分かっている。あの書が奴の手に渡ったら、妖霊全てを支配されるかもしれない。もしそうなったら……。
「早くしろ。今、直ぐに!」
 妖霊の書はボクですら見た事がなかった。あの頃は術が未熟で、厳重に保管されたそれを手に取る事さえできなかった。だけど、今のボクなら。
 思考が高速で駆け巡った。何か防ぐ手立てはないだろうか。あらゆる策が錯綜したが、有効な手立ては見つからなかった。
「オレを怒らせるな」
 民が人質になっている以上、逆らう事は出来なかった。ボクは一歩一歩慎重に進み、中二階の踊り場で足を止めた。
 保管場所は知っている。膨大な書物の裏に小さな隠し扉がある。その中に妖霊の書が入っているとブロジュに教えられていた。
 ボクは書物を掴んで取り出しながら、隠し扉を探った。書棚の背板に刻まれた引き出しの様な微かな窪み。そこに指先で触れ「スリザズ」と唱えた。
 すると、カチャリという音を立て、引き出しが僅かに飛び出した。その中に、妖霊の書と思われる書物が一冊入っていた。
 それは金箔で加工した頑丈な表紙に守られた一際薄い書物だった。ボクは「スリザズ」と、再び鍵の呪文を唱えた。しかし、開くはずの書は、何かの塊の様に動かなかった。
「何をしている」奴は苛立ち始めた。
「無闇に術を使うな。早く持ってこい」
 半信半疑だった。どうして書が開かないのかボクには分からない。他に鍵を開ける術があるというのか?
 奴の言う通り、妖霊の書を手渡した。すると案の定、奴は言った。「開けろ」と。だけど、本当に開ける術を知らなかった。
「駄目なんだ。術をかけても開かないんだ」と、返すしかない。
 奴は無言で妖霊の書を見つめていた。表紙に触れ、四方をくまなく眺め、時に指先で叩いたりもした。しかし、いきなり何かを悟ったかの如く書でトントンと肩を叩くと、口端を上げて言った。
「民の解放が終わるまでに開ける方法を見つけろ」
 それだけを残し、ボクを書庫に押し込めて去って行った。
 不可思議だった。奴は何を考えているのだろう。書庫に取り残されたボクは膝から崩折れ、額を地面につけた。
 書庫の中が見られなかった。思い出すのはニコレッタの差し入れと彼女の笑顔。そして、いつも日暮れ時に迎えに来てくれたバージの顔。あの頃は術さえ満足に使えなかったのに……最後に書庫を出た時は、こんな事になるとは思いもしなかった。
 使命と思い出の境界線が溶けていく。
 バージ……バージ……。
 ボクは拳を握り締めたまま、彼の名を呼び続けた。

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