九 逃亡の果てに

──翔平。あなたに新世界の再生を託しました。あなたにしか出来ない事がきっとあるはずです。それに従い、全てを終えるのが、あなたの生まれながらの使命。
 ボクの中でその声は聞こえた。そして、それだけを残し、奥底へ落ちるように消えていった。
 漸くボクの身体はボクのものになった。目の前には変化の一部始終を見ていたバージの灰色の目があった。彼はボクの二の腕を握っていた手を離し、刹那視線をずらして目を閉じた。
 彼が何を考えているのかまるで分らなかった。そしてボクもまた、嘘のように平常心を取り戻し、胸の掻き傷から湧きあがる熱を改めて全身に感じていた。
 柳瀬の死を無駄にしないように。墜ちた屋敷を取り戻すにはどうすればいいか。思考は残酷なほど世界の前途へと向けられていた。
 柳瀬と最後の別れをする為、あいつの手を握った。ずっと傍にいてくれ。ボクを見守っていてくれ。そして、おまえ以上の勇気を……。
 しかし、突然、ボクは頽れてしまった。不思議なほど身体に力が入らない。霞がかる意識の中で、バージに抱えられた感触だけがあった。
「毒牙にやられたか……」彼は言った。ボクの胸を開き、深く走った爪痕を見て、頬をぱちぱちと叩いた。
「眠るな。これから民の街へ行く」
「民の街……」
 初めて聞く響きに、微かな期待と不安が過った。
「そこにラカンカの兄の癒し手がいる。彼ならおまえを助けられるはず。それまで頑張れ」
そう言い終わらない内に、いきなりバージが立ち上がった。大剣を構え、岩道の方を見ている。ボクは朦朧とした中でそれを追い、バージが見ているモノを見た。
 そこには現実味のない美しさを纏った、通常の二、三倍はある白虎がいた。青く澄んだ瞳が印象的なそれは、悠々と身構え、そっと佇んでいた。そのしなやかな曲線を描いた背中に、天空から一直線に舞い降りた鷹が留まった。
「妖霊だ」
 バージは慎重に言った。すると、それらの獣はボク達を値踏みするように見て言った。
──ジェラ。
 白虎は言った。
──ライゾ。
 鷹は言った。
──真の名を呼ぶ者よ。あなたに呼ばれてここへ来た。しかし、今ここで、あなたを切り裂くこともできる。さあ、どうする。
 ジェラは牙を剥いた。すると、バージは身構えた手を緩める事なく、淡々と告げた。
「彼は毒牙にやられている。このまま死を待つこともできるがそれが得策とは言えない。支配された妖霊を解放できるのは真の名を呼ぶ者だけだ。彼自身は、妖霊に敵意などない」
──なるほど。
 鷹のライゾは翼を広げた。
──生かす価値がある人間か、おれがここで見極めてやる。真の名を呼ぶ者に訊きたい。あなたは妖霊と人間の諍いをどう解決するつもりだ。それに答えろ。場合によっては死んで貰う。
 ボクは身体を出来る限り起こし、今自分にやれること。心の中に居座っていた疑問を解決策として吐露した。
「人間と……妖霊全てを解放する……支配の存在しない世界にする……ボクなりの代償を払い、和解する……」
 バージは振り返ってボクを見た。その目は驚きに満ちていたが、何も発する事はなかった。
──面白い。
 ライゾは首を傾げて言った。
──それは真の名を呼ぶ者の存在意義を揺るがすものだが、それでも構わないということか。
「そうだ……」
 一言発するごとに胸に痛みが走る。呼吸することもままならず、狭まっていく気道から息が音を立てて漏れた。
──妖霊の中にはわたし達の様に中立のモノもいる。
ジェラは鼻を鳴らして言った。
──その目論見に手を貸す価値はありそうだ。わたしの背中に乗れ。毒は忽ち全身を蝕む。
 上体を低くするジェラと、空へ飛び立つライゾ。バージは即座にボクを抱え、白虎の元へと向かった。
「恩に着る。森の内部に民の街へと続く秘密の抜け道がある。そこへ向かってくれ」
──わたしにそれを教えるとは……。
 消えゆく意識の中で双方のやり取りが聞こえる。ボクの身体は宙に浮き、ジェラの背中にうつ伏せの状態で乗せられた。そこへバージが上から覆い被さる。
「振り落とされるな」そうボクに告げ、ジェラの項の毛を握らせた。
「急いでくれ」
 白虎は走り出した。崩れた岩道を巧みに抜け、幻惑の森へと入った。揺れる。身体も、心も。枯草の匂いがする。これがバージの香り……。
 
「初めまして、ファリニス様。オレはアンクー。もう一人の一族の末裔」
 大広間の玉座に立ったファリニスの前には、傅いたアンクーが居た。奴は粗末な衣服を身に纏い、捨てられた犬のような目をしていた。
しかし、ファリニスの側には護衛士のバージと執政のブロジュが立ち、特にブロジュは酷く厳しい目で奴を見ていた。
「父からあなたは亡くなったと聞いていました。よくご無事で……」
 当主でありながら、彼女は純粋だった。聡明な彼女が唯一犯した罪があるとしたら、それは奴の裏の顔を見抜けなかった事だ。
「父上から」奴は顔を上げ、道化のように目を見開いた。
「それはそれは……」
 僅かに影を落とし、ブロジュの顔を盗み見た。その視線を老人は察知していたが、まるで揺るぎのない目で奴を見ていた。
臆することなく玉座へと近寄ったアンクーは、ファリニスの片手を取った。
 それと同時に身を乗り出すバージ。しかし、彼女はそれを制し、奴の思うままにさせた。
「美貌と慈悲を兼ね備えた当主だと聞いています。あなたに会えて光栄です」
 奴はそう言って跪き、ファリニスの手の甲に口づけた。大広間に張り詰めた空気が走る。しかし、彼女は微笑みを浮かべてこう言った。
「屋敷を案内しましょう。もし良ければ、時間の許す限り屋敷にいてください」
 彼女の言葉に二人の同志はざわめいた。
「ファリニス、それは……」
 ブロジュが即座に口を挟んだ。
「いいのです」
彼女は惨めな風情の男を見捨てられなかった。それは、紛れもなく困惑と負い目からであり、彼女の心眼を曇らせるものだった。
それからというもの、奴は屋敷内を我が物顔で闊歩した。バージとは相容れず、ファリニスの護衛を更に強める彼に対し、わざと目の前でファリニスに近寄った。
「屋敷の同志はみな親切にしてくださいます。これも当主であるあなたが優しく、慈愛に満ちているからなのでしょうね」
 奴はファリニスが面食らうほど近寄り、その金髪に触れた。思わず身を引いた彼女は、遠巻きに護衛しているバージに視線をやった。案の定、彼は腕を組んで不機嫌そうに見ていた。
「ご、ごめんなさい……」
 バージ以外の異性には触れされたことがなかった。それだけに、ばつの悪さを感じて俯いた。すると、奴は微笑みを浮かべて言った。
「オレの方こそあなたの美しさに心を奪われてしまって、つい……」
 二人は共に俯いた。その様子をブロジュも見ていた。彼はアンクーが去ったのを見計らい、ファリニスに寄って言った。
「奴には気を許すな。悪い予感がしてならないのだ」
 いつになく深刻な面持ちのブロジュに、ファリニスは目を細めて言った。
「どうしてそんな事を?」
「いや……」彼は髭に触れた。
「なんとなく。なんとなくだ」
 しかし、ブロジュの予感は的中した。夕暮れ時。ファリニスは証に疼きをおぼえた。微かだが、何かに共鳴している感覚がする。不審に思い、証の疼きを頼りに屋敷を出た。それは書庫に近づくにつれ強くなり、裏手の方へと続いていた。
 彼女は書庫を囲む木々の狭間から不自然に書庫を見上げている人影を発見した。それは、アンクーだった。だが、彼女の知る男ではなかった。蛇の様に無機質な笑みを浮かべ、獲物を狙う目で書庫を見つめている。身体から滲み出る邪悪の気は蜷局を巻き、手首の不完全な証は僅かに瞬いていた。
その姿を見た途端、全身に鳥肌が立ち、身を隠さずにはいられなかった。見てはならないものを見てしまった恐怖。また、もっと早く気づかなければならなかった真実。それを知った時、危機感が一気に押し寄せてきた。
 アンクーは振り返った。ファリニスもまた自分の気配を消した。証が共鳴してしまわないようにと息を殺し、奴が目の前を通り過ぎるのを待った。
 奴の足音が消える頃には汗が全身から噴き出していた。彼女は悟った。何かが起きる。必ず。

「翔平、おまえの術が必要だ」
 ボクは森で幻惑を見ていた。バージの声で我を取り戻し、蔓で覆われた岩板の上に手の平を置くように導かれた。
「スリザズ……」
 呪文と同時に岩板が重厚な音を立てて開き始めた。その向こうはジェラが通れる程の通路があった。湿気と黴の臭いが充満したここに、次々と松明が灯る。天井が低い中、ボク達は身を低くしてしがみつき、岩肌が剥き出しになった通路を疾走した。
「もう少しだ」
 バージはボクを励ました。枯草の香りがするからか、不安はない。懐かしい。この香りを前から知っているような気がする。
 幻惑で見た光景は全ての始まり。ボクの知らない彼らの思念を映すものだ。アンクーは生きていた。生きて復讐をしようとしていた。それは、四肢を折られ森に捨てられた復讐なのだろう。誰が。どうして。ボクは幻を見ながら旋回していく思考を一つ一つ手繰り寄せた。
 どれだけ経っただろう。ボクは夢と現実の狭間にいた。バージの体温だけが背中に心地よく伝わる中で、松明よりもひと際明るい光が射した。眩しい。前方がまるで見えない。次に、ジェラがゆっくりと上体を落とすのが分かった。
「翔平がいる。手を貸せ」
 バージの声が響いた。ボクには彼が誰と話しているのか分からなかった。次第に抱え上げられ、ボクは見知らぬ空間へと運ばれた。暖かい。抜け道の冷気がボクの体温を奪ったのか、それとも毒のせいなのか。歯の根が合わないほど寒気が走っていた身体に温もりを感じた。
 誰かがボクの全身に触れている。誰だ……。
「もう大丈夫ですよ、僕がいますから」
 見知らぬ声が聞こえた。
「安心して眠りなさい……」
 その声に導かれる様に、ボクはやっと、眠りに落ちた。

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