十一 真の闇

 ある日、ミオが珍しく屋根裏にやって来た。為す術もなくベッドの上で膝を抱えていたボクに向かって、突然彼女は言い放った。
「いつまでそうしてる気なのよ。あんた当主でしょ?みんなに守られてばかりで何もしない。苦しいのはあんただけじゃないのよ。こうしている間も、ラカンカはあんたの犠牲になってる。分かってんの?何かしなさいよ。何でもいいから!」
 ボクは顔を上げた。触れられたくないこと。触れられても答えの出ないこと。全てを見透かされている悔しさと腹立たしさで、心の奥底から震えが湧き立つのを感じた。
「ボクが何も思ってないとでも……?」
 彼女の苛立ちは分かる。ボクだってそうなのだから。でも、何もしていない訳じゃない。毎日、ボク自身の力で何とか出来ないか考えあぐねている。
「じゃあ、なによ。言ってみなさいよ。毎日誰かが死んでいる。あんたにとっては見知らぬ他人かもしれないけど、あたし達にとっては昨日まで元気だった隣人なんだからね!こんなに何もできない当主の為に死んでいくみんなが可哀相」
 ボクの中でパチンと何かが弾けた。蓋で無理やり閉じ込めていたもの。開けてはならない小さな箱が、ミオのナイフでこじ開けられた。
「だったらボクを差し出せよ!」堪らず叫んでいた。
「今すぐに!ボクはそうしてくれと言っている!」
 ベッドから立ち上がり、気付けばミオの近くに寄っていた。
「君の言う通り、ボクは当主に相応しくない人間だ。平凡に暮らしていたボク
が、突然真の名を呼ぶ者だ、当主だと言って連れてこられた。努力はしている
よ。だけど、そんなに直ぐ当主に相応しい人間になれるなら、誰だってなれ
るだろ!どうしてボクなんだよ……教えてくれ……君なら見えるだろ?ボクは駄目な人間なんだ……今すぐ、ボクを差し出してくれ!」
 ボクを直視していた目は見開かれていた。何を見ているのだろう。ボクの激情を真っ向から浴びた身体は硬直し、顔が恐怖に歪んでいた。
「頼むよ、ミオ……もう耐えられないんだ……」
更に詰め寄った。そして小さな両肩を持った時、とうとう彼女は高らかに泣き出した。
「翔平殿……!」オプシディオが階段を駆け上がってきた。
「ミオ、こんな所で何をしている。姿がないと思ったら……」
「オプシディオ……」
 ボクはミオから離れ、彼の元に寄った。
「頼むよ、ボクを差し出して……奴らの元に連れて行って……」
「翔平殿……」ボクの顔を覗き込み、オプシディオはそっと肩を抱いた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。少し休みましょう……」
 現れたバージが、ボク達の様子を遠巻きに見ていた。

ぎゃああああああああ……。
 妖霊の鬨の声が聞こえる。助けなければ。ボクが行かなきゃ。
 四肢が折れた幼い子供。誰が奴をそこまで追い詰めた。
 アンクーの真の名は破壊。破壊。破壊。
 ごめん、柳瀬……おまえを助けられなかった。
 囚われた同志達。助けるから。必ず。ボクが守る。どうやって。
 ぎゃああああああああ……。
 何度も響き渡る声。犠牲になる民。血まみれだ。全てボクの為に。無力だ……。
 助けよう。今すぐ。簡単だ。扉を開けて……。
「何処へ行く」
 その声は聞こえた。玄関扉に触れるボクの手を制し、背中に手を回してエントランスの階段へと導いた。
 バージがボクを屋根裏へと戻そうとしている。どうして。あの声が聞こえないの……。
 暗闇の中で朧げに映る廊下の木目。扉を開けたオプシディオが顔を覗かせ、バージにこう言った。
「夢遊症だ。最近は特に酷い」
 夢遊症。ボクのことだろうか。
 ぎゃああああああああ……。
「あの声が聞こえない?」ボクは言った。
 しかし、バージは一言「何も聞こえない」と、言った。

 それからというもの、極力誰とも会わないようにした。ブロジュを避け、バージと会うのも夕暮れ時の一回だ。考えろ。自分の力で。どうすることが新世界の為になるのか。平和を取り戻すことが出来るのか。そうやって自分を追い込んでいった。
──翔平。あなたに新世界の再生を託しました。あなたにしか出来ない事がきっとあるはずです。
ファリニスの言葉を思い出し、僅かだが、やっと答えが出た気がする。その一方で、寝る間も惜しみ、エドモスに呼びかけた。
ブランクルーン……──
 今ここに最高位の妖霊が居たなら、事態はもっと良い方に向かっているはず。助けて欲しかった。ボクの呼びかけに応えて欲しい。それでも、エドモスは現れない。だけど、いつかボクの声が届く日まで、諦めないつもりだ。
 すると、階段を上ってくる足音がした。あれはバージの音だ。
 彼は大剣と細身の剣の二本を携えていた。ベッドから動かないボクを見て、薄く鼻から息を吐き「綿布が取れたな」と言った。そして、細身の剣を投げ渡し「少しは身体を動かせ」と、軽く構えた。
 ボクは鞘を抜き、あまり気が進まなかったものの、見様見真似で身構えた。彼は「来い」と言って口端を上げ、余裕の手招きをした。
 前へ進み、剣を振り下ろした。しかし、大剣を片手で操ったバージはいとも簡単に跳ね返した。悔しい。まるで、大人対子供の遊びだ。ボクは更に前に詰め寄り、懸命に剣を振った。シャンシャンと鋼の擦れる音が屋根裏に響き渡り、ボクはいつしか本気でバージに向かっていた。
 楽しかった。額に汗が滲む。左右に動き回りながら手合わせするのがこんなにも爽快だとは思わなかった。
「まだまだ」
 バージは言った。息が切れる。肩で呼吸しながら、ボクは笑い声を上げていた。その時だった、剣を弾き飛ばされた。細身のそれは宙を舞い、屋根裏の壁にぶつかると、床に円を描いて止まった。
 おまけに彼はボクを突き飛ばした。そして馬乗りになると、喉元に大剣を置き、「隙がある。おまえは死んだ」と言って、不敵に笑った。
 バージと戯れたことが嬉しかった。こんな事は初めてで、これからも剣の操り方を教えて欲しいとさえ思った。
 ボクらは暫し無言で息を整えていた。すると「何を考えている」と、ふと彼が呟いた。顔を上げ、正視していた灰色の目を見る。
「答えが出たのだろう?」
そう淡々と切り込まれ、息が詰まった。鋭い。彼はいつだってボクを見ている。
どう答えようか思案した時だった。「ラカンカが戻ってくる」というミオの叫びが階下に響き渡った。
「ラカンカが……?」
 ボクはバージを見て、一目散に階段を下りた。エントランスにはブロジュとオプシディオの兄妹、そして、法衣を来たラカンカが居た。
 彼は号泣していた。法衣はボロボロの布切れになり、酷く痩せ細っていた。顔を上げないまま地面に伏し、皆に囲まれる中でしきりに「申し訳ありません」と震える声で繰り返していた。
 ボクは彼に近寄り「ラカンカ、無事だったんだね」と、喜びの声を発した。
 しかし、彼は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、痩せこけた頬を晒して言った。
「いいえ、私は逃げて来たのです。奴は捕らえた同志を毎日血祭にあげ、それを楽しんでいました。屋敷はもはや地獄です。いつ自分の番が回ってくるのか。考えるだけで恐ろしく、逃げ出してしまいました。私は臆病者です……」
 彼がどんなに恐ろしい目にあったか。その事を考えると責められるはずはなく、止まる事のない嗚咽に胸が痛くて堪らなかった。
「それは違うよ、ラカンカ」ボクは彼の肩に手を添えた。
「良く生きて戻ってくれたね。それはボクの希望の光だし、君たち兄弟にとっても幸せな事なんだ。ありがとう、ラカンカ」
「翔平様……」
 ラカンカの憔悴した顔を見て決心した。ボクに出来る事。ボクがやらなければならない事。それらが、漸く形となって在るべき道へと導く。
「ブロジュ」ボクは覚悟を決めて言った。
「どうしても訊きたいことがあるんだ」
 ブロジュはラカンカに触れていた手を離し、ボクを見て立ち上がった。その目は不可思議なほど冷静で、ボクが言い出すのを覚悟していたかのようだった。
「アンクーは幼い頃に惨い姿で森に捨てられた。それはどうして?ブロジュはその事を知っていたの?」
 刹那、ブロジュの瞳が揺れた。だが、直ぐに淡々と返した。
「それをおまえに伝える必要があるのか」
「あるよ」即座に答えた。
「奴の憎しみはそこから始まった。どうして奴が酷い目に合わなければならなかったのか。ボクには知る必要がある」
 暫し互いの目の奥を見た。もう引き返せない。引き返したくない。ここで明確にしなければ後悔すると、心は告げている。
 それに対してブロジュは半ば観念していた。これ以上、有耶無耶にすることは出来ない。ボクに宿り始めた強い意思を、彼は察し始めていた。
「真の名を呼ぶ者を継承できるのはただ一人。奴は不完全な証を持って生まれたが為、災いの前兆だと捉えた先代が、殺すよう命じた」
 ファリニスの父上が……。
「だから罪もない子供を捨てたの?ブロジュが……そうしたの?」
 知りたくもない真実。頼むから違うと言って欲しい。
「秩序を守る為にはそうするしかなかった」
 身震いする程の衝撃が走った。ブロジュがアンクーの四肢を折り、森に捨てた……。
──奴は真の名を呼ぶ者を守る為ならなんだってやる。おまえはその正体を知らねえ。
分かっていた。どこかで。でも、信じたくはなかった。
「そんなものは偽りだ……」ボクは呼吸が苦しくなるのを抑えて言った。
「犠牲と支配をもって作り上げられた平和は脆い。人々の意思は?真の名を呼ぶ者の為だけに生きることが民の幸せなの?そんなのおかしい……」
「何が言いたい」
 ブロジュは目を細め、手にしていた杖を握り直した。
「ボクはこの世界を、支配のない世界にする」
「何!?」
 エントランスに居た全員が身を乗り出した。ボクに向けられた顔は蒼ざめ、動揺を隠しきれないでいた。
「全ての民と妖霊を解放する。ミオのように支配を知らない世代が居る様に、この世界から真の名を呼ぶ者の存在を消す」
「何を言っているのか分かっているのか」ブロジュは困惑と怒りを混ぜて言った。
「脈々と受け継がれて来た歴史をおまえは潰すつもりか。そんな権利がどこにある!」
「どうしてファリニスがボクを選んだのか分かった」彼女が側にいる様な気がした。ボクにしか出来ない事を知っている。
「彼女自身、支配に疑問を持っていたんだ。ボクなら支配をなくし、新たな世界を再生すると、全て計算していた」
「そんな馬鹿な……」
 愕然としているのが分かった。簡単に受け入れられるはずがない事も。
「屋敷に行く。人質と引き換えに、書庫に潜入する」
「そんなことは許さん!」ブロジュは杖を振り上げた。
「謀反だ!真の名を呼ぶ者を捕えろ!」
 その先端で床を打った時、細長い蔦の様な物が地面を這った。それは波打ちながらボクに近付き、瞬く間に身体に巻き付いた。
「ブロジュ様!」
 ラカンカは立ち上がった。
「彼を行かしてはならぬ!謀反だ!」
 更に杖を打つ。両手にもそれは巻き付き、立ったまま十字の形で動けなくなった。
 ボクは証に意識を集中した。それを阻むようにブロジュは更に続けた。
「ラカンカ、束縛の術を放て!」
「嫌です!」ラカンカは涙ながらにボクに近付き、目の前で懇願した。
「翔平様、どうか考え直して下さい。私に術を使わせないで下さい。あなたを尊敬しています。どうか、お願いします!
 跪くラカンカを前に心が揺れる。それでもボクは行かなければならない。
「ごめん、ラカンカ。それは無理なんだ」
「翔平様!」
 彼は泣き崩れた。泣き崩れながら、束縛の呪文を唱えようとした時だった。
 エントランスの階段をゆっくりと降りて来る人物がいた。バージだ。彼はボクだけを見つめていた。灰色の目は瞬き一つせず、獣のような鋭い視線で威嚇していた。
「裏切者とはこのことか」
 彼はそう言った。エントランスに居た者全員が彼を見つめ、そして道を開けた。携えていた大剣を握り、ボクの方へと進んで来る。
「どけ」
 そうラカンカに言い放ち、固唾を飲んで見つめるボク達の前で、ゆっくりとそれを持ち上げた。
「いい度胸だ」そして、切っ先をボクの喉元に押し付け、口端を上げて言った。
「考え抜いて出した結論がそれか。いいだろう。おまえは孤立無援だ、翔平」
 ボクは息を吸い込み、バージの灰色の目を見つめた。 

サポートをしていただけると嬉しいです。サポートしていただいた資金は資料集めや執筆活動資金にさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。