十九 決死の解放

「ラカンカ!」
 ボクは咄嗟に崩れ行く彼の身体を支えた。すると、すでに虫の息だったラカンカは「これを……」と、妖霊の書をボクの胸元に押し付け、だらりと両手を落とした。
 走り寄ってくるオプシディオの姿が見える。ボクの視界は真っ暗になり、妖霊の書とラカンカを抱え、戦慄く唇から言葉を漏らした。
「ラカンカ……ラカンカ……」
 辺りには中庭に攻め入った騎馬の足音が聞こえる。オプシディオがボクに何かを言っているのが聞こえる。だけど、ボクはうわ言の様にラカンカを呼び、癒し手に押しのけられるまま、呆然と裂けた腹部を見つめた。
「翔平殿、しっかり!」
 オプシディオはボクの肩を揺らし、厳しい目で直視した。
「大丈夫、僕がついています。あなたは自分の役目を全うしてください!」
 その気迫に正気にならざるを得なかった。そうだ。誰よりも動揺していいはずの癒し手がボクに行けと言う。
 行かなければ。今、すぐに。
「早く!」
 オプシディオの声に頷きで答え、妖霊の書を懐に抱えて立ち上がった。
 書庫を囲む最後の妖霊を切り裂いたバージは即座に駆け寄ったが、ラカンカの姿を見て絶句した。
 しかし、書を手にしたボクを見て「オプシディオ、ここは任せた」と言い、ボクの背中を押した。
 時間は刻一刻と迫っている。ラカンカの姿に動揺する間もない程、事態は切迫していた。
 中庭には攻め入った騎馬隊が居た。その中でブロジュは皆に指揮を執っていた。
「ブロジュ……ラカンカが……」
 ブロジュは振り返りボクを見た。複雑に瞳を揺らし、驚きとも憔悴ともとれる表情でボクを見つめた。そして「そうか……」と言った。
「だが癒し手がいる。希望はある」とバージが付け加える。
 すると、ブロジュは頷き「中庭は占拠した。民の暴動が始まり、アンクー共々城外に妖霊の意識が向いている。今の内に陣営を置く」と、足早に身を翻そうとした。
 それを止める様に「民を助けなきゃ!」と、ボクは言った。
「ブロジュ、城門の外にボクを連れて行って。全ての妖霊を解放するつもりだ」
 すると、ブロジュは瞬く間に眉間を寄せた。
「そんな無茶な。おまえは城の外がどうなっているか分かっていない。それはまるで……地獄のようだ。おまえが出ていこうものなら、一斉攻撃にあうだろう」
 地獄。一斉攻撃。それらの言葉がボクを撃つ。
「そうだとしても、これだけの犠牲が払われたんだ。ボクには決着をつける義務がある」
 暫しの沈黙が流れた。ブロジュが直ぐに答えを出せない理由は分かる。
「それに……」ボクは付け加えた。
「広い場所が必要なんだ。どうしても」
「広い場所?」バージは鋭い目でボクを見た。
「おまえは何をしようとしている。妖霊を解放するには証の力が必要なはずだ」
 バージとブロジュの視線が刺さる。蹄の音、騎馬隊の声、城外から聞こえる奇々怪々の呻き声。それらが渾然一体となった時、ボクは答えた。
「ボクの術で枷を壊す」
 バージは目を細め、確認する様に言った。
「枷を吹き飛ばすつもりか。そんな事をしたらおまえの腕がどうなるか。証ですら使えるかどうかも分からない」
「そうだよ。確証は何一つない。だけど何もしないよりはマシだ。それに、アンクーの術を超えるのはボクしかいない。だったら、それに賭けてみる」
 書を抱えた腕に力が入る。ラカンカの犠牲を無駄にしたくない。そんな思いだった。
 すると、バージは言った。「馬を持て!」と。その声に応える騎馬隊。ブロジュは「本気か……」と問い、バージを見つめた。
 彼は馬に跨り、当たり前だと言わんばかりに「ああ」とだけ返した。そして「準備しろ」と告げ、馬上にボクを引き上げた。
 手綱を握るのはバージだった。ボクの背中を護り、運命を共にしてくれるつもりだ。
「分かった。援護しよう」と、ようやくブロジュは言った。
 ブロジュが味方をしてくれた。ボクのやり方を認めてくれた。そう思った時、その瞳は優しく映った。しかし、直ぐに統率者の目へと変わって行った。
「集合せよ!」ブロジュの一声で、騎馬隊は即座に一つの塊となった。
「これから城外へ出る。我らの使命は真の名を呼ぶ者の援護を全力で行うこと。妖霊に指一本触れさせてはならない!」
 騎馬隊はそれに合わせ、鬨の声を上げた。
 やってやる。負けるものか。背中に感じるバージの温もりと枯れ草の香りの中で唇を噛み締めた。
 馬は走り出した。城門に向けて。しかし、騎馬隊の行方にアンクーが立ちはだかり術を放った。それはまるで一瞬の出来事で、騎馬の一部を吹き飛ばす。崩折れる馬。負傷する仲間達。
「みんなが!」と振り返ったが「掴まっていろ!」とバージが叫び、馬を奴に向けて全力で走らせた。
「バージノイドォ!」
 奴は両手を広げて雄叫びを上げた。一直線に疾走させるバージ。彼は大剣を抜き取り、そのままアンクーの真上から振り下ろした。
 奴は証のある右腕を庇った。そのせいで、左腕が大剣に弾かれ吹き飛んだ。苦痛の悲鳴を上げるアンクー。片腕を失い「貴様ぁ……!」と、両膝を地面についた。
 バージは奴を殺すつもりだった。ボクの復讐をする為、恨みを晴らす為に。
「今の内に城外へ!」ボクは言った。このままとどめを刺すべきだったのかもしれない。だけどボクはその選択をしなかった。何故かは分からない。だた、そうしなければならないのだと思った。
 馬は止まる事なく城門の方へと走った。すでに騎馬隊が到着し、門を開けようとしていた。すると、一人の仲間が言った。
「このまま門を開けると民が雪崩込みます。そうなると城外へ出る事は困難になります!」
 その言葉にバージは躊躇いもなく返した。
「ならば押し戻せ!」
 騎馬隊、全員が振り返った。選択の余地はない。ただ一択あるのみ。それがどういう事か。城外を見てきた彼らに狼狽の色が浮かんだ。しかし、それに続いてブロジュが叫んだ。
「早くしろ、押し戻せ!」
 騎馬隊は声を上げ、犇めき合いながら門を開けた。誰一人通さない。そんな気合いが迫って来る様だった。
 その途端、民が雪崩込んできた。騎馬隊は盾と馬で民を押し戻し、城外へ続く道をじりじりと広げた。
「真の名を呼ぶ者を出せ!」「真の名を呼ぶものを殺せ!」そういった怒声と共に、民は容赦なく押し出されて行く。こんなに憎まれていたとは。今更ながら猛烈な落胆をおぼえた。
 ボクとバージを乗せた馬は仲間に囲まれ、民からは目視できなかった。そうしてやっと城外へ出た時、蹄の下がべしゃべしゃとした泥濘になっているのを感じた。むっとした生臭さ。ブロジュは地獄と言っていたが、城外で一体何が起きていたのか。蹈鞴を踏む馬が跳ねた泥の様なモノが、頬にかかって知った。
 それは、ぬるりとした感触の血糊だった。ボクは怖気を感じ、思わず地面を見た。
「下を見るな」と、バージは忠告したが、その時には遅かった。辺りは血の海。泥濘は泥なんかじゃなく、妖霊に切り刻まれた哀れな人間の一部だった。
 阿鼻叫喚だった。想像を超えた地獄。空を舞う妖霊は無作為に民を掴み、宙に放り投げては切り刻んでいた。
 急がなければ。このままでは犠牲者が増えてしまう。もっと城門から離れたい。そう思った時だった。
「翔平、おまえを渡さねえ!」という、城外一帯に響き渡る嬌声が聞こえたのは。
 ボクは騎馬隊の中でもみくちゃにされながら顔を上げた。すると、監視塔に立つアンクーの姿が視界に飛び込み、間違いなく視線が合致した。
 奴はほくそ笑んだ。「おまえの居る場所などお見通しだ」と言わんばかりに。そして、残された右手を上げ、不完全な証を瞬かせた。
「みんな、伏せて!」
 ボクは全身で叫んだ。それと同時に真っ赤に染まった火球が、騎馬隊の中に直撃した。
 ボク達は吹き飛んだ。馬諸共。バージがボクを掴む。彼の懐の中で、全てがスローに見えた。仲間が四方八方に舞う。妖霊の書だけは手放すものか。ボクはその事だけを考え、目を閉じた……。

 ボクはうつ伏せのまま意識を取り戻した。顔を上げ、周囲を見渡す。辺りは灰色の霧が立ち込めている。何も見えない。立ち上がろうとしたが全身が痛む。バージは、みんなは?誰も居ない。ボクだけが、静寂の霧の中に取り残されている。
 すると、砂地を踏みしめる足音が聞こえた。誰かがボクに近寄ってくる。それは霧を縫い、ゆっくりとボクの前で立ち止まった。
 それは、アンクーだった。今までに一度も見た事が無い程の穏やかな顔だ。これは幻夢なのかもしれない。その証拠に失ったはずの左腕がある。
 暫しの沈黙の後、奴は片膝をつき、ボクの前に顔を突きつけて言った。
「これが望みだったんだろ」
 これが望み……ボクは心の中で繰り返した。
「何故オレを殺さなかった。真の名で支配しなかった。そのチャンスはあったはずだ」
「何故……」
 ボクは顎を上げ、考えもしなかった一つの疑問に首を傾けた。
「オレ達は二人で一つだ。そうだろ。貴様がオレを殺さなかったのは、オレに全てを破壊させたかったからだ……それがオレの使命であり、生まれながらの宿命。それを貴様は知っていた。そうだ……いずれ、この世界は終わる……」

「翔平、しっかりしろ!」
 ボクは揺さぶられた。もうもうと煙が立ち込める中、バージの懐で目を開けた。
 アンクーは居ない。その代わりにバージが居る。ブロジュが居る。彼らはボクの顔を覗き込み、眉を顰めていた。
 ボクがアンクーの使命を知っていた……?奴がこの世界を破壊するのを望んでいた……そんな馬鹿な……そんな筈はない……!
 身を起こして辺りを見回した。負傷した仲間達が呻きを上げている。馬が横倒しになっている。騎馬隊の半数は跡形もなく消え、民は震えて逃げ惑っていた。
 監視塔の上に立つアンクーを見た。奴は血まみれになった左腕を押さえ、息も絶え絶えに笑みを浮かべた。
「ボクは……おまえと同じじゃない!」
 全身で叫んだ。そして直ぐ身を翻し「みんな、ボクから離れて!」と言って、仲間から離れた。
「翔平……」
 バージも立ち上がったが、彼が行動するよりも早く制した。
「枷を破壊する」
 ボクは右手を掲げ、証に全意識を集中した。
「ハガラズ!」
 破壊の術。全てを壊す術。一瞬で血が湧き上がり、証へと駆け上った。
 ボクは悲鳴を上げた。
 爆発的な術を覆う枷。僅かな隙間から閃光が漏れ、四方へと放つ。証を焼く激痛。術を塞ぐ枷の執念。ボクの術が勝つか。アンクーの術が勝つか。鬩ぎ合いは証を焼く痛みの中で続いた。
「ハガラズ!」
「翔平、証が!」
 ボクを止めようとしたブロジュをバージが抑える。
「ブロジュはアンクーを頼む。おまえ達は妖霊を抑えろ!」と、生き残りの仲間に告げた。
 ボクは何度も術を唱えた。
 証が、ボクが、溶けて行くのが分かる。骨に染みるのが分かる。でも、負けるものか。ボクの放った閃光は、近寄る妖霊をも巻き込んだ。
 人々は身を屈めた。ボクは無意識に悲鳴を発し、掲げた右腕を左手で支えた。
「ハガラズ!」
 最後の力を振り絞り、術を唱えた瞬間、枷は鉄を砕く様な音をたて、辺りへと飛び散った。
やった……──
 焼け爛れた証が見える。呻く己の声が聞こえる。それでもなお証は瞬きを止めず、ボクの鼓動と共にふつふつと脈打った。
「バージ、馬に……!」
 彼は即頷き、気を失いそうなボクを馬上に引き上げた。
「妖霊を解放する……援護を……」
 彼はボクのアザを見て微かに瞳を揺らしたが「いいか、翔平を全力で守り抜け!」と、仲間に叫んで馬を駆った。
 ボクらは走り出した。阿鼻叫喚と化した城外。妖霊の攻撃を躱しながら妖霊の書を広げる。早くしなければならなかった。ボクの証が力を失う前に。
「ボクに真の名を呼ばれたモノは解放される!」
 書に描かれた文字が金色となって浮かび上がる。
 頁がパラパラと捲れ、風が通り抜けた。ファリニスの香り。本能的にそれを感じた。ボクは、ボクの中にファリニスを見た。傷ついた証に手を添えるファリニス。彼女に導かれ、右手を天に掲げた。
「フェイフュー、マンナス、ドワイ、アルカナ、セイワス、ハダル、メノーズ、カナル、バラガス……」
 彼女の声が聞こえた。ボクの発する声と重なり、まるで和音を奏でる様だった。
「ミカル、ゼス……」解放された妖霊が消えていく。
「アンスズ、ウマル、サバス……」馬は全力で走り、迫りくる妖霊を振り切る。
「ジェラ、ライゾ」仲間の名を呼ぶ。
「ケナル、シビラス、トガーニ、オレイト……」ブロジュと騎馬隊が応戦している。呆然とする民。向かってくる民。それらを掻い潜りながら、解放は続いた。
 歯を食いしばる。ありったけの力を注ぐ。全てはこの瞬間の為に、ボクは生まれて来たのだから。
 そして、とうとう最後の頁を捲った。そこには、ただ一つ。エドモスの真の名があった。
エドモス、帰ってきてくれ──
 そう心に強く願い、噛み砕く様に唱えた。
「ブランクルーン。あなたを解放します」
 金色の文字は光を失った。辺りは静寂に包まれ、人々は立ち尽くした。妖霊が消えた。何もかもが終わった。ボク達の馬も足を止め、バージ共々両肩で息をした。
 すると、監視塔に居たアンクーが浮かび上がった。奴はかつての下僕に切り刻まれ、全身を朱に染めていた。
 奴の両脇を掴み、空へと晒し者の様に上げる妖霊達。
──真の名を呼ぶ者よ。人間は我らを支配した代償を払わねばならない。魔剣を使い、我らを永久に葬った以上、この男の生命だけでは納得しない。さあ、どうする。
 そう言って、異形のモノ達はケタケタと不気味な笑い声を上げた。分かっている。いつかは払わなければならないと思っていた代償。そうだ、覚悟はある。
 そう思った時だった。項垂れたアンクーから笑いが漏れ、城外一帯に響き渡ったのは。
 奴は腹の底から笑い、不敵な笑みを浮かべてボクを見つめた。

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