私の書棚

「私の書棚」

 小さい頃、親から書棚の本の背表紙を見るだけでも勉強になるから、常に見えるところに本は置いておけと云われたものです。それ以来、読書家と云う訳ではないのですが、常に私の身のまわりには本が有りました。

 むかし、作家の椎名誠さんが何かに書かれていたのですが、相手のことを知りたければ、その人の本棚を見れば、普段何を考えているかは一目瞭然だと仰っておりました。
 奥さんとの結婚を決めたのも、彼女の部屋の本棚を見て自分と同じ価値観だと確信したからだそうです。
 
 そういえば、私も十代の頃、親友の家に泊まりに行ったとき彼の書棚を興味深く覗き見した記憶があります。彼は普段、十代の若さにも関わらず、ダブルのストライプのスーツ、先の尖ったエナメルの靴、髪はオールバックと三十数年前の不良少年のスタイルでした。

 でも、その彼の部屋の書棚には、坂口安吾、太宰治、芥川龍之介の著作や、私にはあまり縁のない詩集などが綺麗に整理されて並んでいました。
 私はそれを見た時「へえー・・・」と思ったと同時に「やっぱりね!」という感想を持ったことを今も記憶しております。
 彼は一見、昔の「歌舞伎町のホスト」のような風体だったのですが、仲良くなると彼の行動や心の中は、繊細で心揺れ動く、今風に云えば「ちょっとオトメ」なところがあったのです。そして、その書棚は、昭和の文学少女の書棚そのものだったのです。

 私はそれ以来、知り合いの家を訪ねると思わず書棚を見る癖が付いてしまったのですが、ある時、年配の学者さんとそんなことについて話をしていたら、「むかしはそんなことは、当たり前だ。だから、敢えて自宅の応接間には人に見せる為の書棚を置いたものだ…本当の書棚は誰にも見られないように書斎や寝室に置くものだ」と。
 そう云えば、むかし親戚の家の応接間に大きな書棚があり、そこには、なんとか小説全集とか、なんとか歴史大系などがずらっと並んでおりましたが、全く読んだ形跡もなく、手垢など付いていない状態に、うっすら埃が溜まっていることを思い出しました。

 今では本を読む人も段々少なくなり、見せる見せないに関わらず、ちゃんとした書棚が自宅からはなくなり、有るとしてもお洒落なラックに雑誌やマニュアル本が並んでいるだけのようです。
 そうなると、私の悪い癖の書棚の覗き見も意味をなさないような気が致します。

 少し前に、そんな話を若い三十代の友人にしたところ「それなら簡単よ。書棚じゃないけど、相手のスマホやパソコンの検索履歴を見れば、今何を考えているのかすぐ判るわよ、時々彼氏のを見て確認してるけど・・・」
 やれやれ、そうなると私の思う本棚の覗き見の域を超えてしまっているような気も致しますが、時代なんでしょうかね。

 さて、私の狭い寝室には、少し大きめの書棚があります。長年読んできた本を整理もせず、無造作に詰め込んであるのですが・・・、それを改めて他人の書棚を覗き見するようにその背表紙を眺めるならば、マニュアル本やお洒落な雑誌の類は一切なく、あるのは歴史・宗教・哲学の類の本ばかり、「あぁー、こいつはこんな本ばかり読んでいるようでは、ちょっと難しい奴で、うまく一般社会に適合できるタイプではないな!」と苦笑しながらも私自身が判断せざるを負えないでしょう。

 そこで、もしご自宅に自分だけの書棚をお持ちの方、どうでしょう、一度他人の書棚を覗き見する気持ちで、そこに並ぶ本の背表紙をご覧になって見ては如何でしょうか?
 もしかしたら、過去から現在にかけて自分が何を考え、何を求めて来たのかが、冷静に判断でき、そして見失いがちな自分や、忘れかけていた夢や想いが、そこに読み取れるかも知れません。

 読み終わった本をすべて古本屋に売ってしまうのも潔くていいのですが、出来れば人生の節目節目に興味を持ち夢中で読んだ本は、そっと書棚にしまって上げて下さい。
 それは、必ずアルバムや日記とも違う、人生の大切な記録のひとつになると私は思っています。

 私にとっての書棚は、自分の「精神の変遷」を時として教えてくれる大切な存在なのです。

 そして、これから先も、私の寝室から好きな本が乱雑に押し込まれた書棚だけは、無くなることはないでしょう。

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