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「二世」として育つ子供の厳しさ

 ここで言う「二世」とは宗教2世をはじめ、世間一般とは異なる思想信条価値観をもった親のもとに生まれ育った子供のことである。今年は新興宗教の信者を親に持った子供の話題も多かったが、世間と親の価値観が異なるという状況は伝統宗教でも起こりうるし(ex. 日本におけるイスラーム)、さらには宗教に限った話ではない(ex. ヴィーガニズム)。

 それで、何らかの「二世」として生まれ育つ子供はその成育環境を原因として様々な問題を抱える可能性があるのだが、根本的な問題は「世間一般の価値観と親から継承される価値観の折り合いを自分でつけなければいけない」ことではないかと思う。

※この文章に何らかの宗教や思想を批判・非難する意図はない。今回取り上げるのは構造上の問題である。

 この国では信教の自由が認められているし、私としても個人がどのような思想信条であうが何を信仰しようが自由なのが望ましいとは思うのだが、問題は「二世」の子供は「一般的な」家庭の子供とは状況が異なるということである。つまり、「二世」の子供にはどれくらい「自由」がありますか?ということだ。

「一世」、すなわち自分で何らかの宗教に入信したり何らかの思想を選択した人たちは思想信条や信教の自由の受益者である。ある程度育った後、自分でその信仰や思想がよいと思った結果の行動なので、それによるメリットデメリットも当然考慮しているだろうし、社会との折り合いも自分の責任でつけていけばよい。自分の思想信条なのだから、こういうことはしないとかこれを優先しますとか、そういった調整も(多少困難があったとしても)自信をもってできるはずだ。

 一方「二世」の場合は事情が異なる。その宗教や思想は親から継承されたものであり、「一世」のように自分で選択したわけではない。二世本人がそれがいい/それでいいと思っているのならいいのだが、問題はそうではない場合、その価値観に疑問を抱いていたり反感を覚えていたりする場合である。

 子供がまず教育を受けるのは親であるが、一方で幼稚園や保育園を経て各種学校での教育も受けるし、それ以外の社会との交流もある。その時必然的に親と世間との価値観の違いに直面することになる。他の子供たちがしていることが、自分は親の言いつけでできなかったり、あるいはほかの子供たちがしていないことを親からするように勧められる/強制されるといった場面が出てくる。

 さらには、大人相手であれば大抵は世の中にはいろいろな宗教や思想があると知っているし、少なくとも表向きは多様性を尊重してくれる場合が多いだろうが、そういう知識やマナーを知らない子供どうしでうまく折り合いをつけるのは難しい。何らかの制限で同じようにできないことに本人として不満を覚えるのに加え、他の子供から奇異の目で見られたり、傷つくような言動がなされたりする可能性がある。

 しかも、その原因となっている宗教や思想は本人が選択したものではないのである。自分が選んだものでもないのにそれと世間との折り合いをつける負担を背負うことになる


 この「折り合い」が難しい理由の一つはどう折り合いをつけても何らかの問題が発生すること、そしてもう一つは親に悪意がないことだと思う。

 まず一つ目。仮に親の価値観に沿って行動することを選んだ場合は、他の子供たちとの交友がうまくいかない場合が出てくるだろうし、世間との摩擦が発生することもあるだろう。本人が継承された価値観を自分のものとして再選択したならば問題ないが、そうでもないのに折り合いの負担だけ背負うのはつらいことだと思う。信じてもいないことのために我慢したり努力したりするのだから。

 一方で世間の価値観に乗り換えるというのも簡単なことではない。子供はその生活を親に依存しているのであり、そこから自立できないうちはどうしても親との関係を考慮せざるをえない。これは先述の二つ目の理由とつながるのだが、親は自分の選んだ宗教や思想がよいものだと思っているため、全くの善意で子供もそれを選択することを望む。そのような中で子供がその価値観から離れるというのはよろしくない事態なのだ。そのため程度の差はあれど自分のほうに引き留めようとするし、それが子供からすれば(そして世間からしても)加害行為ととらえられる場合もある。

 悪意があればともかく、親が自分のために引き留めようとしているのは子供からもわかるものである。きっぱり親と絶縁できる子供もいるだろうが、そうはしづらい子供ももちろんいるだろう。生活がかかった状態ではなおさらである。

 成長して親から自立し、親の宗教や思想から離れても、子供のころに教えられた価値観などがすぐに消えるわけではないし、子供の頃に「一般的な」家庭の子供が得られた経験や交友関係がない状態で生きていくことになるという影響が残る。親と絶縁するにしても関係を続けるにしても、生育環境はその子供だった「二世」の一部として残るのである。

 今の日本では、「二世」には「一世」が享受したような「信教・思想の自由」はあるだろうか?


 もっとも、世間と折り合いをつけていかなればいけないというのは「二世」に限った話ではない。誰しも自分の希望や好みの通りに生きていけるわけではないし、自分の価値観と世間の価値観のずれは大小の差はあれど抱えるものである。

 とはいえ、何らかの「二世」として育つ子供では、その折り合いをつける負担が大きくなってしまう。それはまず、継承された親の価値観と自分が成長する中でもつようになった価値観との折り合いであり、そして親の価値観も含めた「自分の」価値観と世間との価値観の折り合いである。親の価値観と世間の価値観がおおむね一致していれば自分⇔世間(親)という構図になるものが、二世の場合は親⇔自分⇔世間というような板挟みに陥りかねないのだ。

 さらには、普通親は子供の味方になってくれるものだし、子供が社会の価値観とうまくやっていける手助けをしてくれるはずなのだが、「二世」の場合は、子供が親と異なる価値観を持った場合に、それでも子供の味方をしてくれる保証があるとは限らないのである。

 そして「二世」問題が難しいのは、信教や思想の自由が保障されているゆえに親がその価値観を子供に継承させようとすることを止めることが外からはなかなかできないからだ。親がいいと思うことを子供に教えること自体はどの親もやっていることだし、特定の価値観だけそのような教育を制限するというのは不可能である。


 結局は「二世」問題も所謂「親ガチャ」、すなわち子供が親を選べないという人間の生殖構造上不可避な問題の一部なのだろう。子供は自分を生んだ親のもとで育っていかなければいけないが、どの親のもとに生まれるかは一切選べない。地球のどの国どの地域に生まれるかも、どういう経済状況の家庭に生まれるかも、どういう性格の親かも、そしてもちろんどういう宗教や思想をもった親かも選べない。

 誰にでも平等に自由があるべきで、それは宗教や思想においてもそう、というのがこの国の掲げる理想であり、国民の多くもそれに賛同していると思う。しかし、何らかの「二世」として生まれた場合、親にその自由が保障されているがゆえに、子供はその自由のコストを生まれながらに負担することになってしまう。これは人間は平等に生まれることがそもそもできないという事実の一面のように、私には見える。


補足
 これを書いている時にネットで宗教2世当事者の実態調査というものを見つけたのでリンクを貼っておきます。興味のある方はどうぞ。


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