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自重・ちよさき対談 第2回「反出生主義の思考の筋道」

 この企画ではnoteに反出生主義関連の記事を投稿している自重さんと私ちよさきが、反出生主義に関連するテーマについて議論します。第2回は「反出生主義の思考の筋道」というテーマです。前回のものを含め下のマガジンにまとめていく予定です。

ちよさき:今回のテーマは「反出生主義の思考の筋道」です。反出生主義と呼ばれる思想がどのように組み立てられているのか、辿っていきたいと思います。よろしくお願いします。

自重:こちらこそ、よろしくお願いいたします。

ちよさき:この反出生主義、字義通りには「出生に反対する主義」と読めますが、子供をもうけることをよしとしない思想です。これがもし実現すれば人類は絶滅してしまうことになるわけで、極端にも思える思想です。
 まず反出生主義が目的としていることですが、私はまだ生まれていない人間が不幸になることの回避だと考えています。自重さんはどうですか?

自重:私も同意します。人間以外の、全ての有感生物も対象だと思います。

ちよさき:私としては全ての有感生物に対象を広げるのが現実的かは疑問がありますが、理論としては確かに人間に限定する必然性はなくて、「まだ生まれていない個体が不幸になることの回避」という表現のほうがよいでしょうか。このように非存在に考慮した反出生主義は「博愛的反出生主義」と呼ばれる、という話を前回しました(第1回「反出生主義とは何か」もどうぞ)。
 反出生主義では、生まれることは必ず害悪であるという立場と、幸せになる可能性も不幸になる可能性もあるという立場があるように思えます。私は幸せな人生の可能性は否定できないと考えていますが…。

自重:ええ。人生が必ず害悪だという考え方については様々な証明が行われていますが、結局のところ実感として幸福なのか不幸なのか決めるのは生きている当人ですからね。
 バイアスがかかっていようが、実感はないため「隠蔽された苦痛」に気づかない。盲従的なのかもしれませんが、現実として人生が必ず害悪だという証明を各々の現実生活に適用するのは難しいと思います。不幸なのか幸福なのか分からない、という立場の方が納得がいきますね。

ちよさき:私も本人が幸せと感じているのなら、わざわざそれを否定する根拠も必要もないと思います。全ての人が生まれたくなかったと感じているなら反出生主義はもっと普及しているでしょうし、もう人類は絶滅しているかもしれません。
 ただ幸福な人生の可能性を認める場合、なぜそれよりも不幸な人生の回避を優先するのかという疑問・反論が予想されます。

自重:確かに。
 しかしながら、「幸福」というものは苦しみの除去にすぎないという考え方があります。この考え方からすれば、人生の幸福を求める行為は、人生を始めたことによって押し付けられた苦痛を除去して一時的にいい気分になるという所謂マッチポンプ的な行為であると言えるのです。(不幸を除去した状態が幸福ならば、不幸の大元である「存在を始める」ことを止めればいいだけ、という話です。
 ちよさきさんは先に仰った反論についてはどう思われますか?

ちよさき:そもそも人生を与えなければ幸福になる必要がない、というわけですね。幸福は相対的なものなので、一時的に幸福になっても満足を忘れればまた除去すべき苦しみが現れるというのも言えそうです。現代人は過去の人たちが経験せざるをえなかった苦痛の多くを回避していますが、その分だけ幸せかというとそうでもないように思えます。
 私はそれに加えて、生まれたことは後悔できても生まれなかったことは後悔できないという非対称性が言えると思います。これは生まれていない(少なくとも受精前の)「人間」には意識がないという前提ですが、意識がない非存在は自分が享受するはずだった幸福を認識できないしそれを残念がることもないはずです。よって生まれないことは彼ら非存在にとって何ら問題なく、苦痛や不幸を回避させるために出生をさせないほうがよいと考えられます。自重さんの挙げたサイトでは「ベネターの基本的非対称性」として紹介されている考えに近いでしょうか。

自重:ええ。ベネターの考えも紹介していますね。The real argumentはベネターの基本的非対称性も支持し、解説しています。
 個人的には、苦痛の不在は良い・快の不在は悪くないという前提が確かに正しいと証明されたものか検証が不足している気がするので、そこは突き詰めていく必要があると思います。でも「普通」の感覚として考えれば、多くの人が理解できると思うし、私も賛同しています。

ちよさき:私もベネターの考えに疑問がないわけではないですが、生まれる/生まれないの間にある非対称性は反出生主義の重要なポイントだと思います。
 他には、ある行為が他人に不利益をもたらすリスクがある場合、たとえそれが利益をもたらす可能性があるとしても、それを本人とのコミュニケーションなく勝手にしていいのかという観点もありますね。出生の場合、「本人」の意思がまだ存在しないので同意の取りようがないのですが。

自重:そうですね。例えば心肺停止したときのAEDのように、多少のリスクはあれど、明らかに当人にとって結果的に利益になると判断できる場合には行為をしていいと思いますが、出生がそうだとは到底思えないです。
 出生の同意に関してはまさに仰る通りで、結論を言うと同意は取れませんし、同意が取れる環境だとしても、子ども側が同意という行為にきちんと参加できるほど知能が発達しているかという問題もあります。
 子どもの知能が発達しているかとか、子どもに意志はあるのかというように様々な形態が考えられますが、いずれにしてもこれらは「簡単に出生の同意を得られないこと」の証左となるでしょう。私達の見えない所で同意が行われているかもしれませんし、本当の真実は分かりません。分からないからこそ、無闇に出生させるのは責任ある振る舞いではないと私は考えます。

ちよさき:様々な可能性は考えられますが、現時点では同意の取りようがないというのが妥当でしょうね。
 ここまで反出生主義が幸福の可能性より不幸のリスク回避を優先する理由を考えてきました。まだ生まれていない人/個体が完全に苦痛や不幸を回避するためには、出生自体をさせないというのが最も確実でしょう。
 しかし、当然のことながら生殖をやめればその種はいずれ絶滅してしまうわけですが、反出生主義はそのことについてどう考えているでしょうか?

自重:反出生主義・AN(アンチナタリズム)は絶滅を問題だと考えません。これを聞くと皆さんかなり動揺するようですが,逆に「私たちが絶滅すること」に本当に問題があるのか考えてみるといいでしょう。案外独善的な理由で絶滅を忌避しているのだろうと私は考えます。
 反出生・ANにとって、絶滅とはあくまで結果にしかすぎません。

ちよさき:なるほど、「人類の絶滅」は悪いことのように聞こえますが、それは人類の絶滅に伴う社会・文明の崩壊などが問題なのであって、人類がいなくなること自体には何ら問題がないように思えます。反出生主義と社会の維持をどう両立させるかは課題ですが、人類あるいは生物種に存続の義務があるとする根拠は宗教に頼らない限り見つからないでしょう。宗教的背景が薄れた現代でもなぜ多くの人々が「人類は絶滅してはいけない」と思うのかは個人的に気になるところです。

自重:私もです。本能と簡単にまとめてしまうのも危うい気はしますが、生きたいという思いは、本能的、遺伝子的な次元なのだと考えます。死にたいという思いを抱えながら産まれてくる生物が本当に存在するのかは、よく分かりません(厳しいでしょう)。遺伝子を増やす、繁栄させるために生命活動をするならば、「死にたさ」は繁栄を妨害する考えですからね。
 その他、人間が自分勝手な理由や自分に都合のいい理由を振りかざして、絶滅を頭ごなしに否定している、というような側面もあると思います。

ちよさき:子孫を残したいという欲求が強いほうが子孫を多く残してきた以上絶滅を忌避するバイアスがあるのは自然なことで、むしろ絶滅しても問題ないのではと考えられるのが生物としては異常なんでしょうね。もし個人の幸不幸を超えた存続の利益や義務が示されれば反出生主義への「勝ち筋」になるはずですが、何か思い当たる可能性はありますか?

自重:何しろ私自身がアンチナタリスト・反出生主義者なので、今となってはなかなか直ぐには思い浮かびませんね。それこそ宗教とかそこらへんの話にもなるんでしょうけど、宗教が一番大事なものというわけではなさそうですし…。ちよさきさんは何か思いつくものがありますか?

ちよさき:私も思い当たるとしたらそれこそ宗教とか、世界を作った神様とか登場させるしかないんですよね。
 主流の科学ではそういうのはなくて、世界の形成や人類の進化は偶然の産物とされているので、人類の存続の義務をそこから見出すのは無理だと思います。もちろん絶滅の義務もないので、あとは何を「よい」とするかですが。
 一方で神とか造物主とかそういうものを全否定はできないですが、そういう話は何というかどうとでも言えてしまうので…。神本人が出てくれば別ですが、結局それらは信仰の領域を出ないのではと思います。まあ、神がいて存続しろって言われても世界がこの有様では、素直に「はい頑張ります」とは言えないですね。

自重:ええ。私も不幸が存在する世界を作った神に対して、素直にこの世界を受け入れろと言われても難しいです。宗教をどれくらい信じるかは個人の裁量です。ANは宗教よりも科学の立場に近いというのは確かな事実だと思います。だからこそ、宗教に対してどうアプローチするかを考える必要があると思いますね。

ちよさき:個人の思想信条の自由は認められていますし(我々がこういう話できるのもそのおかげですし)、誰が何を信じようと自由です。ただ子供をもつというのは他人に関係することなので、個人の思想信条の自由の領域にとどまらないのではという指摘はできると思います。
 ただ反出生主義がいくら理論的に強度があろうが、信仰に対して理詰めで対抗するのは難しいしあまりよい策ではないでしょう。日本は宗教的に熱心な人があまり多くはないので反出生主義と宗教との衝突はそこまでないでしょうが、イスラーム圏のような社会では普及すら難しいように思えます。

自重:そうですね。イスラーム圏における普及についても、今後どこかでお話できればなと思います。
 さて、反出生主義の筋道ですが、今のところは

1-1. 出生は明らかに当人にとって利益になると判断できる行為ではないため、同意なく出生させるべきではない
1-2. まだ産まれていない人間(存在)が苦痛を感じること、不幸になることの回避をするべき
2-1. 人生には必ず苦痛が伴う
2-2. 幸福とは苦しみや不幸の除去に過ぎず、不幸の大元である「存在を始める」ことがなければ、わざわざ幸福を感じる必要もない
2-3. 生まれなかった事は後悔できても、生まれなかったことは後悔できない(非存在には意識がないからという前提)
3. 2の内容などによって、生まれないことは非存在にとって何ら問題でないといえるため、1の理念に則り出生をさせないほうがよい
結果→人類(有感生物)は滅びるが、苦痛は根絶される

といった感じでしょうか。

ちよさき:はい、苦痛や不幸の完全な回避という目的に対して反出生主義がどうそれを達成しようとしているか、またそれに伴う問題をどう考えているのかを整理できたと思います。
 しかしまだ考えるべき点はあると思っていて、例えば我々が他者の不幸を回避すべき根拠や、人類がいなくなること自体は問題ではなくてもではどうやって平和的に絶滅するかという現実的な課題などが挙げられると思います。
 自重さんはどういったところが今後の論点になると考えていますか?

自重:個人的には、先程仰った「平和的な絶滅」についてもっと具体的な議論をすべきですし、いかに現実とリンクさせて机上の空論という指摘に対抗するかも論点として今後重要になると思います。

ちよさき:そうですね、やはりいかに現実に適用していくかというのが大きな課題だと思います。
 今回は「反出生主義の思考の筋道」というテーマで対談を進めてきました。今現在の思考を整理するとともに、今後の論点も見いだせたかなと思います。ありがとうございました。

自重:こちらこそ、ありがとうございました。

お読みいただきありがとうございました。今後もこのような、テーマを決めての対談形式のnoteを作る予定です。ご意見ご質問などあれば、コメント欄にお待ちしています。

自重さんのnoteはこちら↓

(第2回編集:ちよさき)

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