自分がされていなくても

 先日開業した山手線「高輪ゲートウェイ駅」に導入されたAI駅員が話題になっているというか批判を浴びているというか(というかこの駅名どうにかならんのか、炎上商法味すら感じる)。AI駅員は周辺案内のために設置され、利用者が質問するといろいろ教えてくれるそうで男女1人ずついるが、彼/彼女にプライベートな質問をすると答えてくれたり受け流したりする(要は拒絶しない)ことが一部の人により問題にされた

 いやまずそもそもAIのプライベートってなんだよという話なのだが、人間の従業員に対しては今日ハラスメントと捉えられかねない質問にも対応できるように設定しているというのがよろしくなかったらしい。

 確かに人間の従業員に業務とは関係のないプライベートな質問をしたりして従業員は立場上抗議できず受け流さざるをえないといったことは、従業員が不快であればハラスメントだし、それに関してそういうことをしてほしくないと表明するのは問題ないと思う。かくいう私も接客でそういう経験はないとはいえ、プライベートな質問をされるのは苦手なほうなので、他人に失礼な質問をしない、プライベートについてしつこく尋ねないというマナーには賛成である(何が失礼か、プライベートかは人によって認識に差があるだろうが)。

 しかし今回の件、答えているのはAI駅員である。どんな失礼な質問をされようがプライベートについて聞かれようが、それにどう答えていようが、AI駅員は別に嫌がってはいない。AI駅員はマイクに吹き込まれた音声を認識し、プログラムに従って導き出された最適解を返しているだけで、その質問に快不快を覚えることはないのだ。我々はAIにハラスメントできるほどの技術段階に至ってはいない。

 ただ、そんなことは批判側もわかっているはず(願望)なので、彼/女らが問題にしているのは、公的な場所に「ハラスメントを助長しかねない」「ジェンダー観を強化しかねない」ものを置くのはどうなのかという点、そしてこのAI駅員を作成した会社が「このご時世にもなお」プライベートな質問にも答えるように設定していたという点なのだろう。まあ最近Twitterで散々問題にされている点である。

 この話に関しては他の方がいろいろ書かれているのでここで深入りはしない。今回の本題は、「なぜ自分が不快な思いをしたわけでもないのに、他者の経験に乗じて不快感を表明するのか」である。

 先ほども書いたが、AI駅員はどんな質問をされようが不快には思わない。そして、AI駅員に失礼でハラスメント的な質問をされることは、あなたがそうされることではない。AI駅員に何を聞こうが、あなたに対して適切にふるまってくれれば別に問題ないはずなのである

 このように、他者が不快感を表明していないにもかかわらず「自分がされたら不快だ」とわざわざ表明するのは何もAI駅員やポスターのような無生物だけではなく、実在の人間に対しても行われる。宇崎ちゃん献血ポスター騒動の直後に、女性モデルを起用した広告が「胸を強調している」と批判の対象になったように。そのモデルさんは別にその写真を使われることを何ら問題としていなかったし、むしろフェミニズムを名乗る人々からそのような批判を浴びたことに戸惑ってすらいたように見えた。

 結局これは「あなたが怒らないから私が不快な思いをするんだ!」と言っているわけで、何に怒るかは自分で決めていいんだと普段言っているならばできない主張である。「されたほうが嫌ならハラスメント」というのは裏を返せば「されたほうが嫌ではないならハラスメントではない」なのだ。プライベートな質問をされたり性的な関心を示されたりするのを拒絶するのも自由ならば、拒絶しないのも自由である。

 しかしこの「私の不快なものにはみんなで怒るべし」主張が発生するのにも理由がある。それは、「不快な体験は未然に防がないと不快さを避けられない」からだ

 不快な体験、例えば仕事上で親しくもない相手からプライベートな質問や誘いを受ける、あるいは魅力の乏しい(さらには嫌悪感を覚えるような)相手からアプローチを受けるといったことは「これからあなたに不快な体験をさせるかもしれません」などという前置きはなく、ダイレクトで訪れる。そのような事態に上手く対処できたとしても、それらが起こったこと自体不快な体験なので、リアクションでダメージをゼロにするということが極めて難しい。

 公共の場所の不快な表現もそうで、「嫌なら見なければいい」とは言うが「嫌」と認識するのは見てからなので、「嫌なものを見ない」というのは公共の場所にそれらがある限りは困難である。

 そういうわけで、不快な体験を未然に防ぐためには「不快な体験をさせるものを自分の周囲から、社会から極力排除しリスクをゼロに近づける」という方策をとることになる。今回の件で言えば、AI駅員が不快な思いをしていないとはいえ、仕事中の人間に失礼を働く人たちがいるのだから、そういうことをしてはいけないと知らしめて自分が同じような体験をするのを未然に防ごう、となる。不快な体験をそもそもしたくない人にとっては、自分がされていなくてもあらかじめ「こういうのは不快です」と表明しておくことが、さらにはあわよくばそれを社会の共通認識にしてしまうことが自衛となるのだ。

 先日、非モテ男子にはこんな女子がおすすめというツイートに批判が殺到した件もこれと同じで、非モテにアプローチされるという不快な体験を事前に防ぐためには、アプローチすんじゃねえぞと事前に牽制しなければならない。自由恋愛なら誰にアプローチするのもそれを断るのも自由なはずだし、自由恋愛に賛成なら望まないアプローチをされる可能性自体は受忍しなければならないのだが。

 私はこういうのが全部悪いと言うつもりはないし、マナーと言われるものもこうやってできているのだろう。それをされると大方の人は不快だから、しないようにしましょうというのがマナーだし、そのおかげでいちいちそれは私が不快だからやめてほしいと言う手間が省ける。しかし程度問題であって、不快な人もいるがそうでない人もいるということに関して、あるいは今回のように、誰も直接不快な思いをしていないことに関して、不快だからやめろ排除しろというのは言い過ぎであろう。それが不快な人もいるんですよ、くらいが穏当かと思われる。

 むしろ、不快だなんだとあまりに主張しすぎると、リスクが高いと思われてまともな人間は近寄らなくなり、寄ってくるのは人の不快感を気にしない猛者ばかりになってしまいそうである。不快な体験をしたくないというのは私もそうだしよくわかるのだが、残念ながらある程度は自分で強くなるしかないのかなと思う。こういう不快感を事後的に緩和してくれる薬とか作られないかな…。

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