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繰り返し、変化

 わざわざリンクなどは貼らないが(どうしても見たい方は私のTwitterを遡ってほしい)、少し前の話。

 先日Twitterで「今時反出生主義者にさっさと〇ねばなどと言う人はいない(それを「論破」する反出生主義者はシャドーボクシングしてるだけ)」という趣旨のツイートが流れてきた。確かに最近見ないな、古くからある反出生主義への「反論」なので、もうさすがに出てこないのかなとその時は思っていたのだが、数日後、まさに「反出生主義者はさっさと〇ね」系のツイートが流れてきて、いや現役やんけと笑ってしまった。

「反出生主義者はさっさと〇ね」に対しては「死んだら反出生主義を実現できない」でFAではないかと最近思っているのだが、いまだに新たに人を生み出すことと今生きている人の人生の継続をごっちゃにしたような「反論」は出てくるのだなあと思った。もっとも「出生は普遍的に悪い」としてしまうと「生きている人(それも苦痛の自覚がある人)はさっさと死んだ方がよい」になりかねはしないか?という疑問もあるので、そこが切り離せるかどうかも微妙な気はするのだが。ベネターは自殺を推奨しているわけではなかったが、詳しいところはまだ把握できていない。

 それに「〇ね」などと言わずとも、安楽死を用意してくれれば反出生主義者の数は減少に向かうと思う。件のツイートの人が安楽死賛成なのかは知らないが。

 とはいえ、「反出生主義者はさっ(略)」程度の使い古されたようにも見える「反論」がまだ出てくるというのは、反出生主義の認知度の向上の表れでもあろう。私が反出生主義関連でネットでちょこちょこ書き出したのが2年前で、もうその頃にはネットで反出生主義について扱うウェブサイトだったり、Twitterアカウントだったりも幾つか存在していた。その後それらがどれほどの規模に拡大したのか、全体像はつかめていないが、拡大していることは確実であろう。

 書籍でも、ベネターの『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』が邦訳され、「現代思想」で反出生主義特集号が組まれ、先日は森岡正博氏の『生まれてこないほうが良かったのか?』が発売された。日本でも主にはネットのある種「アングラ」な環境でのミーム的な性格が強かった(のかな?)反出生主義が少しずつ表の世界に進出しているように思える。ちなみに私は、こうして並べて初めて森岡先生の本のタイトルがベネターの本を意識しているのだろうということに思い至った。時間見つけて読まなきゃ。

 もうだいぶ前のことで誰のツイートだったかも忘れてしまったのだが、「ネットのわるいオタクの趣味だった反出生主義がいつの間にかガチで信奉する人のいる思想になってしまった」みたいなことが(あまりよい文脈ではなかったように思うが)言われていた記憶がある。昔も真面目に反出生主義の正しさについて考えていた人はいるだろうが、Twitterのプロフィールに「反出生主義」とわざわざ書く人はここ最近多くなったような気がする。私はあんまり反出生主義者をたくさんフォローしているわけではないのだが(どちらかと言うと「外」を見ていたい)、おすすめユーザーに出てくる反出生主義関係アカウントが毎回違う人なので、クラスタとしてそれなりの規模になっているのかなあと思う。

 一方で、反出生主義界隈(その存在や範囲はさておき)の外側では反出生主義はたまに出てくる程度である。思想もたくさんあるのでどの話題もたまにしか出てこないと言えばそうなのかもしれないが、その話題から反出生主義につながらないのは「あえて」なのではないかなあと感じる時もなくはない。リベラルやフェミニストに批判的だったりする人たちは、実は反出生主義と見えてる現実が割と近いのではないかなあと思ったりすることもあるが、こちらに流れてくる気配もあまりないので、「普通」は人類の断絶は問題解決の手段にならないのだろう。

 これも前誰かが言っていたのだが、反出生主義は議論に「強すぎて」議論が広がらないのだ、というのを見た。反出生主義は「それを言ったらおしまい」を真面目に「だったらおしまいにしましょう」と言っているようなものなので、それはあるかもしれない。とはいえ議論としてはおしまいでも、反出生主義の実現というのはそこからなので、議論におしまいを見出した方々はぜひその後の話をしてほしいなあと思う。

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