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「多様性担当」

 まだこれは空想の話なのだが。

 世界の先進国と同様、日本もまた少子化が進んでいる。その問題についてはここでは深入りしないが、現代の社会と人口再生産の相性が悪いことは明らかだろう。しかし少子化が問題だからといって、子供を増やすために昔のような社会に戻すというのは、人々、特に女性からの支持は得られないだろう。

 現代の社会を守りつつ少子化を解決するとなると、今もいろいろ対策が講じられてはいるが、そのうち技術、すなわち「人間の機械的生産」によって人口を維持しようという話になる可能性はある。女性の子宮に頼らず人口再生産ができれば、女性の負担も大幅に減少するだろう。

 もちろんそれには解消すべき技術的課題やその他の問題があり、いつ可能になるのかわからないのだが、これは仮にそれが可能になったときの話である。

 そのような社会では、どれだけ「機械生産ベビー」の多様性が認められるのだろうか?

 子供を作るための遺伝子の「交配」はランダムだろうか、それとも何らかの作為が加わるだろうか。遺伝の仕組みがどれほどその頃明らかになっているかはわからないだろうが、ある効果を狙って交配するということもある程度可能になっているかもしれない。

 どちらにせよ、そうやって生産された子供で何らかの遺伝に関係がありそうな問題を抱えることになった人間(それは今何らかの障害として認識されているものも、単なる性格やパーソナリティの問題とされているものも含む)は、生まれてから自分が生産された過程に抗議する可能性がある。自分が生きづらいのは自分が誕生させられる過程において、そういう遺伝子をあてがわれたからである、と。

 機械生産の子供たちがどのように育てられるかわからないが、平等を重んじるならば、収入や家庭環境に差がある里親制度ではなく、一括で育成されることになるだろう。そうなれば、同じように育てられたのだから、遺伝子の差と言うのが如実に現れることになる。どうしても能力の優劣や幸福度の差はあるだろうし、それが経済面や精神面でのQOLの差に反映されるだろう。

 そのような社会で「負け組」になってしまった人たちは、(それにどこまで遺伝子が影響したかはともかく)自分を負け組にした「遺伝子ガチャ」を認めるであろうか。自分たちへの補償とともに、自分たちのような「多様性担当」の生産はやめて、もっと均質でも社会に適応できるような人たちだけを生産するように求めるであろう。

 機械生産ベビーの均質化は「負け組」だけでなく「勝ち組」からも求められることかもしれない。それは「多様性担当」がかわいそうという善意からかもしれないし、多様性が社会の負担、すなわち自分たちの足手まといになっているという意識からかもしれない。

 これは優生思想的に見えるかもしれないが、遺伝子ガチャで「多様性担当」になってしまう人たちのことを思えば、なかなか反対しづらいのではないか。

 それで、多様性は多少減らしても、できるだけ社会に適応しやすい子供だけを作るようにしましょうとなった時、どこまで多様性の幅を認めるのかが問題となる。なぜなら、普通から遠い辺縁を消滅させると、新たに辺縁がその内側にできてしまうからだ。それを繰り返すと、多様性の幅はどんどん狭まってしまう。

 仮にある時点で多様性を一定程度残しつつ社会に適応しやすい子供だけが作れるようになったとしよう(それは元からすればかなり均質的だろうが)。そのような社会は同じような人しかいないので、普段は上手くいくだろう。…普段は。

 普段はそれでいいのだが、ひとたび状況が変わると、それこそ今年の感染症の流行のような事態が起こると、均質性というのは脆弱性になりうる。例えば、人と積極的にコミュニケーションしたがる人たちばかりだった場合、感染症の蔓延でそれが制限されるような状況では、コミュニケーション不足で社会がうまく回らなかったり、無理に人と接触して感染が終息しなかったりという事態に陥る可能性がある。

 結局、普段のことを重視するのなら均質な人たちばかりでいいのだが、非常時の対応や新しいことへの発展を求めるなら多様性が必要になる。しかし、それらの多様性が通常時からも望ましい性質とは限らないし、本人も周りの人もそのことを悩ましく思う可能性がある。

 これはあくまで遺伝の研究が進み育成環境が均質化した「工場生産ベビー」の時代の話ではあるから、すぐに心配する話ではない。とはいえ現在でも、自分が子供に何らかの遺伝的な「多様性」を残してしまうことが心配な場合は、子供をつくるのが生まれる子供にとってよいことなのかというのは十分な問題になりうる。

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