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リベラリズムの自死、あるいは完成

 2020年代はリベラリズムが変化を迫られる時代になりそうである。

 リンクの記事を読んでいただくと話が早いが、要はリベラルな社会では子供が少なくなるため、将来的に共同体の維持が困難になり、イスラムなどのリベラルな価値観とは遠く、しかし安定的に人口再生産を行う人々が彼らに取って代わるのではないかという話だ。

 近現代になってわざわざリベラリズムが自由や人権、とりわけ男女平等やリプロダクティブ・ライツを主張せざるをえなかったのは(それらが多くの人に望まれそうなものであるにもかかわらず)、そもそもそれらを個人に十分に保障しつつ共同体を維持できた社会がなかったからだろう。もちろん技術の発展によって昔よりも自由や人権を各人が行使する余地は広くなっただろうが、しかしながら生殖の分野では、生身の人間に頼らずに次世代を再生産することはまだできていない。

 一方で現代でも出生率が高いのは、西欧諸国ほどには女性の自由や権利が認められておらず、教育水準にも男女差がある「前近代的な」地域や共同体である。女子教育が普及すれば世界の人口増加がかなり抑えられるという話もある。しかしながら、少子化に悩んでいてもリベラルな社会がそのような「政治的に正しくない」社会を見倣おうとするはずもない。出羽守と揶揄される人たちはフランスの出生率をよく例に挙げるが(それも移民によってかさ上げされているだろう)、それよりも遥かに出生率の高いニジェール(2017年の合計特殊出生率は7.0)の話はしない。

※アメリカで近年高い出生率により規模を拡大していると言われるアーミッシュについて最近こういうニュースがあった。リベラルな社会にも性被害はあるだろうが、アーミッシュの場合性被害を泣き寝入りさせられてしまうことが多いようだ。性被害に厳しい話はイスラムにもあるし、いくら人口が安定してもそのような社会を望むような女性はほとんどいないだろう。


 今更リベラルな社会を「産めよ増やせよ」という方向にもっていくのは困難であろう。それは個人の自由や人権を侵害することで「正しくない」からである。産む側の女性にとっては、自分が欲しくて子供を産むならともかく、社会を維持するために何人も産んでくれ(多少納得できなくても結婚してくれ)と圧力をかけられるのは嬉しいことではない。また、そのように女性に圧力をかける側にも「政治的に正しくない」といレッテルだけでなく「共同体の維持のためには自由や人権の制限もやむをえない」という規範が反転してくるため、自分だけ安全圏にいるということもできない。

 また、リベラルな社会が維持できないとわかった上でその世界に子供を産むことは「正しい」のだろうか?個人の自由や人権が制限されることが明らかな世界に子供を連れてくることそれ自体が「人権侵害」と言える。そもそも「自由」「人権」といった概念が擁護されるべきものとして存在するのはそれらが制限や抑圧や侵害の可能性があることの裏返しである。今の日本で「日本語を話す自由」「左足から歩き出す権利」をわざわざ主張する人がいないのは、その自由が侵害されていないからである。つまり、自由や人権を完全に守ろうとすると子供は産めない。個人的にはこの論点がリベラリズムの真の「詰み」のように思う。

 かくしてリベラリズムを愛する人々は遠からず選択を迫られる。すなわち、今の人類の限界を受け入れて、少子化が技術的な解決を見るまでは個人の自由や人権を制限するか、あるいはリベラリズムを完成させられない人類と世界に見切りをつけて共同体の存続を諦めるかである。

 冒頭の記事に対するTwitterの反応には「滅びるしかない」「滅びればいい」というものも散見された。彼らは後者の道を選ぶのであろう。ただ、残念なことに、リベラルな社会の衰退は人類の衰退ではないのである。リベラルな社会が滅んでもリベラルな価値観とは距離を置く社会が取って代わるだけであろう。間違っても世界人類が(リベラリズムに沿って)よりよい方向に進んだりはしない。

 このような流れは「思想のための自殺」とも言われる。上に紹介したツイートでは「健康になるなら死んでもいい」と同類の論理とされるが、私としては「健康になれないなら死ぬ」というほうが的確なように思う。自身の健康の改善に限界が見えたとき、その限界と折り合いをつけて生きる人もいれば、そのQOLでは不満だからいっそ人生自体やめてしまおうとする人もいるだろう。まあ「人生をやめる」のも現状大変なのだが。

 リベラリズムが無理なら滅んでいいという人たちは、文明の撤退戦をどう戦うつもりなのだろうか。また、彼らの後に来るリベラルでない社会をどうするのだろうか。そのうち絶滅リベラリズムが勃興して、個人の自由や権利を守らない文明もろとも道連れにしようとするかもしれない。SFじみた話だが。

 もっともリベラリズムに殉じて死ぬ人たちはリベラルな社会の一部であり、いよいよ危ないとなれば多くの人たちは「思想のための自殺」より社会の維持のための妥協点の模索を選ぶだろう。ただ、「それなら滅びればいいんだよ」を受け入れない人たちも「共同体の維持のために我慢するなんて御免こうむりたい」という思いは多かれ少なかれあるだろうし(そういう思いを原動力にしてリベラルな社会ができたのだ)、リベラリズムの危機を乗り越えてもしばらくしたらまた個人の自由や人権を求める声の大きくなる時代が来そうである。それまでに少子化を解決する技術ができているだろうか。


 最後に。ここまで「思想のための自殺」を他人事のように話してきたが筆者のnoteの大きなテーマは必然的に人類の絶滅がその帰結となる「反出生主義」であり、「思想のための自殺」そのものである。私自体は人類が滅ぶことそれ自体は別に構わないし、地球史的に見てもそれは一生物種の絶滅に過ぎず悪いことだとも思わないのだが、一方で文明の衰退自体がそこに暮らす人々にとって大問題となることは事実として認めざるをえない。反出生主義の正しさについては去年「現代思想」で反出生主義特集が組まれるなど盛り上がっているようだが、その論理的な面とは別に、それをどのように実現するかはまだあまり議論されていないように思われる。「滅べばいい」論者の皆さんが(彼らが反出生主義者かは知らないが結果同じことである)どのように文明を「畳む」つもりなのかについて活発に議論していただけると、こちらとしてもありがたい。

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