「現代思想」反出生主義特集号 入手

 ご無沙汰しております、ちよさきです。ここ最近忙しかったり筆が進まなかったりでnoteのほうは更新が滞っておりました。

 Twitterではちょこちょこ呟いていたことですが、10/28に青土社より「現代思想」11月号が発売になりました。この号というのが反出生主義特集ということで、Twitterの反出生主義に関心をもつ人々の間で話題になっていまして、かくいう私も先日入手した次第です。寄稿しているのはほとんどがアカデミックの人たちで、さらにはあのベネターの論文の邦訳も載るということで、いつもTwitterなどのネット空間での意見や議論とはまた違った反出生主義論考が読めるのではないかと期待しておりました。

 昨夜から読み始めたのですが、さすがにアカデミックの人たちが書いてるだけあって、内容がある感じがして(本当にあるのかは私には判断しかねるところもありますが)、ボリュームも結構な量あってこれは読むの大変だぞと思っております。割と初めのほうにベネターの論文の邦訳が載っているのですが、これがまた長くて(40ページくらいある)、昨夜は途中でギブアップしてしまいました。日本人が書いてる他の記事のほうが読みやすいので、読みたいところから読むのがいいかもしれません(といってもそちらも結構複雑な話なのですが)。

 というわけで、読んだのが今のところ最初の森岡戸谷対談と続く2記事くらいなので、まだ全体の感想を書くまでには至らないのですが、今回記事を書こうと思ったのは表紙の副題に引っかかったからなのでした。

※あいさつの流れでですます口調でしたが、以下いつもの文体に戻します。

※2019/11/03 末尾に追記をつけました。


反出生主義は「『生まれないほうが良かった』という思想」なのか

 今号のタイトルは「反出生主義」を考えるなのだが、それに続く副題は「『生まれないほうが良かった』という思想」となっている。これは私としては違和感を感じるものであって、なぜなら反出生主義の本質は、私としては「生まれて良かったか否か」より「これから新たに人間を誕生させてもよいか否か」を問うものであると考えているからである。それではどうして「現代思想」はこの副題を反出生主義の紹介としたのだろうか。

 これはまだ中身を読んでいる途中での推測だが、この号で反出生主義を取り上げるにあたり大きな存在となっているのが、自身の論文の邦訳も載っているデイヴィッド=ベネターである。彼は著書『生まれてこないほうが良かった――存在してしまうことの害悪』(原題 Better Never to Have Been: The Harm of Coming Into Existence.)など反出生主義に関連した著作・論文を著しており、現代における反出生主義研究の代表的人物であろう。それで、今紹介した本のタイトルからもわかるように、ベネターの反出生主義は「生まれないほうが良かった」なのである。おそらくそのベネター的反出生主義を中心において各寄稿者が記事を書いており、そのためこの号で「反出生主義について考える」と題したとき、副題として(反出生主義=)「『生まれないほうが良かった』という思想」が来るのである。

 これは冒頭の森岡戸谷対談からの引用なのだが、森岡正博氏曰く、ベネターの議論の核心というのは、「こんなところに新たな生を出生させるのはどうなのか」というところではなく、「たとえ人生にいくら快が多くあったとしても、人生の中に痛みがほんの一滴でもあっただけで、生まれてこない良さのほうが、生まれてきた良さよりも勝ってしまう」という主張にあるそうだ(12頁)。ベネターの業績の一つというのはこの主張を分析哲学を用いて論証しようとしたところにあるらしい。


 それで私の違和感の話に戻ると、反出生主義の本質は「生まれてこないほうが良かった」かどうかなの?という疑問がある。これは「現代思想」の中でも触れられていた点だったと思うが、この「生まれてこないほうが良かった」というのが誰にとっての「良さ」なのかは問題になる。

 当然最初に思いつくのはその生まれた本人にとってどうだったのかという話だが、その人が「生まれて良かった」「生まれないほうが良かった」と思うのに反出生主義が出る幕はあるのだろうか。ベネターが分析哲学を駆使して「あなたの人生は実はこんなに悪いものだったんですよ!」と論じたところで(多分ベネターはそんなことしないと思うが)、それこそCMでお馴染み「※個人の感想です」で却下されて終わりだろう。生まれて良かったかどうかは個人の主観であって、本人が生まれて良かったと思えばそうなんだろうし、逆もまた然りである。

 私はベネターの上記の主張とは異なり、出生により誕生した人が利益を被る、すなわち苦痛や死も含めた人生全体に肯定的評価を下す可能性を否定せず、よって「全ての出生は害悪」とは考えていない。むしろ私が問題としているのは、出生した全ての人がそれを肯定的に評価できるわけではなく、それどころか苦痛に満ちた人生を送らざるをえない人が現代においても無視できないほど大勢いる、しかも出生というのは構造上親からの強制であるという点である

 そういうわけで私からすれば、反出生主義が考えるべきは「生まれないほうが良かったか」というよりも、「これから新たに人間を出生させてもよいのか」ではないかと思ってしまう。

 先ほどの森岡戸谷対談からの引用の続きの部分では、森岡氏がベネターを評価できるのは「生まれてくることの価値」を分析哲学の土俵に乗せた点、及び「われわれはいったいどのような理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」という問題を提出した点だと述べている(12-13頁)。この二つ目の点が今私の述べた問題意識のところであり、これはベネターとしても考えるべき問題だと思っているようだ(森岡氏もこちらの問いのほうが重要なのではと述べている)。


 この対談を少し遡って11頁には、(森岡)「この『生まれてこないほうがよかった』という問題設定のなかには、哲学的なパズル解きという面と、自分の人生の根本に突き刺さってくる、本当に切羽詰まった実存的な問題という面があります」とある。これには奇しくも私が「現代思想」を入手する前の下記のツイートに通じるものを感じた。

 すなわち哲学的に反出生主義あるいはベネターの論証が正しいのかという点も大事なのだが、一方でTwitterを眺めていると反出生主義が登場するのは森岡氏の言う「実存的な問題」から発する文脈におけるものが相当数あるのではないかという印象がある。それが戸谷氏が森岡氏に続けて語る「日本での近年の反出生主義の受容のされ方を見ていくと、そこには少なからぬひずみがあるような気がしています」(12頁)ということと同じなのかなと思った。

 反出生主義の受容の中には「反出生主義の需要」というものが少なからずあって、「生まれないほうが良かったのではないか」と思う人たちにとって、論理でもってそれを支えようとする反出生主義というのは哲学的パズルとはまた違う意味をもつのだろう。そういう人たちにとっては反出生主義はまさに「生まれないほうが良かったという思想」なのかもしれない。


 ただ、反出生主義が必要とされるのは自分の人生の評価だけではないはずである。むしろ、自分の人生に否定的な評価を下し「生まれないほうが良かった」とまで考えるような「出生被害者」が存在する世界で、新たな子供を生み出してもよいのかという問題こそ、反出生主義の出番であろう。「生まれて良かったか」はベネターが出生の害を論証したところで結局は主観であり、自分の人生を反出生主義が救ってくれるわけではないのだ。それよりもむしろ、「これから新たに人間を生み出してもよいのか」を問うほうが有意義なのではないか。

 反出生主義というものに触れ、それを理解できるようになるのは大抵十代以降だろうと思う。そこで「自分が生まれて良かったか」という問いもだが、「自分は(人間は)子供をつくるべきか」という問いも当然に出現するのである。自分の人生の評価は死ぬまでゆっくり考えればいいが、自分が子供をつくるかどうかはそうもいかないだろう。二十代にもなれば、それに関して現実に選択を迫られる可能性が十分にあるのだ。そのときに、子供をこの世界に生み出すか否かという不可逆の判断をするための助けとして、反出生主義の論理が参照されるだろう

 さらには、反出生主義が新たな出生を否定したときに、残された我々は人類の晩年をいかに過ごすかという問題も存在する。新たな世代を生み出さずに平和的な断絶によって反出生主義を完遂することが果たして可能なのかという点も反出生主義に付随して考慮されるべきであろう。

 そういう思いがあって、個人的な意見ではあるが、「これから新たに人間を誕生させてもよいか問う思想」みたいな副題だと、より興味が出たのかなと感じる。まあこれはまだ読み進める前に書いているので、内容がどうだと評価するものではないし、反出生主義の特集が組まれただけでもありがたいのだが。今後の好調な売れ行きを願う。


 余談だが、この「現代思想」の裏表紙の広告欄にはスピリチュアルを感じる本(「死生学研究」とは初耳である)の広告が載っており、ちょっと面食らってしまった。自分が観測する限り反出生主義を支持していたり関心があったりする人はスピリチュアル系とは遠いイメージがある。「子供は親を選んで生まれてくる」とか「前世が云々」とか、苦手な人が多いように思う。「生きることの意味を問う思想」ということで広告を出したのだろうか。そうは言っても広告を出してもらったおかげで値段も幾分下がっているのだろうし、あまりとやかく言うことでもないのだろう。

 中身を読んだらまた、noteのほうに感想を上げていきたい。1400円+税分のボリュームはあるので、反出生主義に興味がある方は、アカデミックの人たちが反出生主義に関してどのようなことを考えているかを知るためにも購入されてみてはいかがだろうか。


※2019/11/03 追記

 こちらのnoteの投稿告知ツイートに対し、今号に寄稿してらっしゃる古怒田望人氏から以下のリンクのような引用ツイートをいただいた。

 おそらくこれは私がこのnoteの中で、「現代思想」中ではベネター的な反出生主義が中心に置かれているのではと述べたものに対するコメントであろう。言い訳をするならば、私はこの文章を書いた時点で中身のほうはまだ大して読み進めておらず、副題がどうして「『生まれないほうが良かった』という思想」になるのかを推測したものが先述の箇所であった。古怒田氏の寄稿は後半のほうだったのでまだ読んでいないが、氏への依頼がツイート中のようなものだったとお教えいただいたので、その点を念頭に読んでいきたいと思う。とりあえず反出生主義特集であってもベネター特集ではないことはわかった。

 昨夜は、「現代思想」のこの特集ではベネター的反出生主義が中心になっているからあの副題になったのではないかと書いた。しかし考え直してみれば、反出生主義を哲学的問題として考えるときにベネター以外で中心にできる人・論理が存在するかと言われると、思いつかないのである。過去の研究を引きながら何かを語るとなれば、反出生主義の場合、必然的にベネターは大きな存在にならざるをえないのだろう。

 今日起きたら古怒田氏のほかにも、こちらも寄稿者の逆卷しとね氏からnoteがTwitter上でリンクされましたよという通知が来て、びっくりしたのであった。まだ大して読んでないのにいろいろ語っちゃってすみません…。

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