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反出生主義と被害者意識

 反出生主義というのはごく簡単に言えば、出生により人間は必ずしも幸福になれるわけではないので新たに人間を誕生させるのはやめましょう、という思想である。すなわち「出生被害」をなくすことを目的とする。

 人生にはいろいろな苦痛や困難、不安が伴う。それらが本人の行動や判断により左右されることは言うまでもないが、その根本はといえば、「自分が生まれた(I was born)」という自分ではどうしようもなかったことである。

 反出生主義にたどり着く人々のうち、ある程度(私としては結構多数派だと思っている)の人たちは「生まれたくなかった」という感情を抱いているか過去に経験している。自分の置かれた境遇の原因を辿っていくと、あの時こうすればああしていればという「自己責任」の範疇を超えた先にあるのは、自分の人生が他者から自分の同意なしにスタートさせられたものであるという事実である。自分の関与できないところで自分の人生が始まり、自分はそれに対処することを余儀なくされたということを認識したとき、「生まれたくなかった」という「出生被害」の自覚に至る。

 反出生主義は「生まれたくなかった」という感情で構成されるものでないとはいえ、生殖がそれによって生まれる他人に苦痛を強制するものである(もちろん利益もあるだろうが、不利益が相殺されたと本人が感じるかどうかはわからない)という事実は反出生主義の根底にあり、そのことは自分が「出生被害者」であると思っている人たちのほうが理解が容易である。「生まれたくなかった」からといって過去は変えられないが、新たな「出生被害者」を出さないことはできる、「生まれたくなかった」から反出生主義に至る経路としてはそういうものが考えられる。


 ただ「出生被害者」であることが確かな事実であったとしても、それをアイデンティティ化するのはあまりよろしくないように思える。両親が行った生殖という行為によって害を被ったとしても、結局人生は本人がどうにかするしかないものであり、「出生被害」を訴えたところで、その補償を期待するのは現実的でない。親はいずれ老いるし、生物的な寿命はあなたより早く尽きる可能性が高い(親が子供の人生の責任を全て取ることができないという構造は反出生主義を補強するものでもあるのだが)。社会からの支援も限りがあるだろう。余裕があるなら自分で改善を探ったほうが期待が持てるかもしれない。あなたが「出生被害者」なのが事実でも、そこにとどまり続ける必要はない

「出生被害」という自覚は一種の自己肯定感を生む。自分に価値がないように思えても、そもそも自分が存在しているのは自分の意思によるものではないため、存在していて何が悪いと開き直ることができる。勝手に連れてこられたのに、存在価値がないと責められるのもおかしな話である。完全な自己責任が存在しない以上、出生を肯定するなら「不良品」の発生は受け入れるべきである。

 しかしその自己肯定感はあなたに足場を提供するとしても、あくまでそれは足場である。そこにとどまるのは自由だが、そこから他のところへ進んでみるのも悪くないだろう。出生被害者であろうと幸福になる権利はあるし、反出生主義はあなたが幸福になることを否定しない。

 それに、反出生主義を実現しようと思うなら、いつまでも被害者ポジションを取り続けられはしないだろう。実現のためには被害者として救済を訴える以上の主体的な行動が必要になる。反出生主義の理解のために「出生被害」の概念を戦略的に用いることは手段として有用かもしれないが、「出生被害」をなくすために行動する人たちは被害者意識を適切な位置に収めておいたほうがよいだろう。

「出生被害」は事実であり、私はそれを否定するものではない。自分の人生の根本に自分は関与できなかった事実を認識することで過度に自罰的にならずに済む。ある人にとってはやっと見つけたサンクチュアリのような場所かもしれない。ただし、そこに自分の人生を縛り付ける必要はない。それに、ミニマムには反出生主義は自分が子供をもたなければいいのだが、そこからさらに「出生被害」をなくそうと外に出るのであれば、いずれ被害者ポジションから離れることが必要になると思われる。「出生被害」を超えるというのが反出生主義の課題になるかもしれない。

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