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優秀さのジレンマ

 いろいろ実現してほしい制度はある。安楽死とかベーシックインカムとか。でも、それらがどんな形であっても実現さえすればそれでいいかというと、そういうわけでもない。

 安楽死への慎重論でよく聞くのは、今の日本で安楽死を認めたら、障害者や難病の人、高齢者など「周りのお荷物になっている」人が周囲からの圧力で安楽死に追い込まれるのではないかという意見である。私は安楽死には賛成で、勝手に生まれさせられたのだからいつでも苦痛なく死ねるべきだろうとは思うのだが、しかしながらそれらの懸念を全否定することはできない。もっとも、人権が尊重されていない社会で安楽死は危険!と言われても、人権が尊重されていないから安楽死の需要があるのでは?と思ってしまうのだが。

 それで、仮にこの国で安楽死が認められることになった場合、その時に導入する政府や官庁の意向次第では、建前上は自己決定権のひとつとして「死ぬ権利」を認めましょうということになっていても、下心として、社会保障費の削減など「生産性の向上」の意図が入ってしまうことは十分懸念される。今のところ高齢者は大票田なので彼らの反感を買うような政策を掲げて選挙で勝つことは難しいが、国は高齢者の年金などの社会保障費の増加を抑制したいと考えているだろう。そのような下心のもとで設計された安楽死制度は、自己決定権を尊重するどころかむしろ逆の結果になる危険性がある。

 ベーシックインカムも同様で、私はこれだけ文明が発達しているのだから全ての人が生活を保障されるべきだし、技術的失業の増加に備える意味でも実現すべきだと思っている。しかし、ベーシックインカムの導入に賛成する人の中には、社会保障の全部や一部をベーシックインカムに移行し、その分で費用を浮かそうと考えている人もいるらしい。同じ言葉で全然違う思惑があるのは迷惑なので、できれば区別したいところだが。

 そのような中で、いざベーシックインカムを実現しますとなったときに、後者の社会保障ベーシックインカム化派によってそれがなされるならば、私の考えているベーシックインカムとは違うものになるし、全ての人の生活保障という目的も達成されなくなってしまう。名前だけ実現すればいいというものではない。

 それでタイトルの「ジレンマ」の話だが、安楽死にしろベーシックインカムにしろ、あるいは反出生主義にしろ、それを人々の利益になるような形で実現できるような優秀な人は、その実現のために優秀さを発揮するモチベーションがなかなかないのではと思ってしまう。すなわち、「Aを実現させられるほど優秀な人は、Aを必要としていない」。

 優秀な人は、終末期や回復の見込みのない病気にかからない限り安楽死を必要とはしないだろうし、もしそうなったとしても、そうなってからでは優秀さをなかなか発揮できない。ベーシックインカムにおいても然りで、優秀な人はベーシックインカムなどなくても十分生活できるだろう。反出生主義についても、優秀な人は別に生まれたくなかったとも思わないだろうし、実現させるメリットはその人個人にはない。中にはこれらの実現に真剣に取り組もうとする人もいるかもしれないが、反対に自らの利益を考えてこれらに反対する人もいるだろう。

 むしろ安楽死やベーシックインカムや反出生主義を必要としない人が「優秀」なのだ、みたいな書き方になってしまったが、一般論としてはそうだろう。安楽死やベーシックインカムの実現を願ったり、反出生主義に賛成する人は大抵弱者とされる側であり、自分たちでその実現を成しうるかと言われれば、難しいのではと思ってしまう。

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