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安楽死についての雑感の追記

 先日投稿したこちらの記事に2点、付け加える。

同じ境遇どうしの対立

 今回の事件の「被害者」となった女性は難病の筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患い、その苦痛で安楽死を望むようになったということだったが、今回の事件を受けて他のALS患者からは、安易に安楽死ができるようになると「生きる権利」が脅かされるのではないかという懸念の声も上がっている。

 ALSが難病であり、発症者は大変な苦労を強いられるとはいえ、彼ら全てが安楽死を望んでいるわけではない。今後の人生に希望が見いだせず安楽死を望むようになる人がいる一方、闘病を続けながらも、自分ができることをやっていこうと生きている人もいる。

 安楽死が単純な「選択肢の追加」であれば、死にたい人は利用する、まだ生きていたい人は利用しない、で何の問題もないはずだ。しかしこのような声が上がるということは、彼らはそうならないことを懸念しているのだろう。最初のリンクでALSの国会議員である舩後康彦氏は

『死ぬ権利』よりも、『生きる権利』を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。どんなに障害が重くても、重篤な病でも、自らの人生を生きたいと思える社会をつくることが、ALSの国会議員としての私の使命と確信しています。

と述べている。これは裏を返せば、彼は今の日本社会は難病や障害を抱える人が、それらの問題自体から来る苦痛以外の、社会との関係に由来する苦痛を抱えやすいと考えているということだろう。

 それは例えば、周囲の人ができていることができないことによる疎外感だったり、介護者の助けを借りないと日常生活もままならないことによる無力感だったり、社会のお荷物とみなされているのではないかという不安だったりするかもしれない。あの植松死刑囚の事件は、彼は極端な例かもしれないけれど、実行には移さないまでも同じように考えている人が少なからずいるのではないかという不安を、難病や障害とともに生きている人たちに与えたように思う。

 そのような状況において安楽死が可能なケースが拡大していくというのは、自らが望まない死を選ばざるをえなくなるという不安を抱かせるのに十分であろう。難病や障害があってもまだ生きたいと願っているのにもかかわらず、周囲から安楽死を期待されるような状況になれば、自分の意思を貫くのが難しいと感じる人もいるだろうし、そういう圧力がなくても周囲がそう思っているのではないかと思ってしまうことは精神的に負担となりかねない。

 最初に「対立」と書いたが、彼らが必要としているのは、安楽死を望む側も安易な安楽死に懸念を示す側も同様に、「自分の生死を自分で決める権利」である。難病や障害があっても生きていていいと思えると同時に、もう終わりにしたいと思った時には実際にそうできるというのが、彼らの願うところであろう。

 上に紹介した記事で登場するALSの患者の方々も、安楽死に懸念を示してはいるものの、今回の事件で亡くなった女性の心情は同じ病気を抱えている者として我々よりも理解がしやすいだろうと思われる。それだけに、安楽死の問題で対立してしまうような構図になることは、残念に思う。

「○○が先」と言うけれど

 先の舩後氏のコメントの引用には「死ぬ権利よりも生きる権利を守る社会へ」とあった。彼がどの程度死にたい人の安楽死を認める立場なのか詳しくは知らないが、彼以外の意見でも「死ぬ権利/安楽死より、そういう考えを抱かせる社会のほうを変えるのが先」という趣旨のものを散見したように思う。

 おそらく、今Twitterで「#国は安楽死を認めてください」というハッシュタグで安楽死制度の実現を希望するツイートをしている人々の多くは、ALSのような難病による身体的苦痛というよりは、社会の中で生きることに伴う困難によって、人生に希望をもてなくなってしまったのだろうと思う。その前提に立てば、安楽死を認めればその人たちは問題から解放されるが、しかしその人たちを苦しめていた問題が解決されるわけではない。根本的解決は皆が死にたくならないような社会をつくることだし、それは安楽死賛成派の人たちも同意するところだろう。

 でも、それっていつ実現できるんですか?

 確かに「生きる権利」が守られた社会、誰もが生きていたいと思える社会が理想ではあるが、しかしそれが現状理想にとどまっているというのはすなわち、今まで人類はそのような社会を築き上げることができていないということである。一般人の生活水準は上がっているし、生物的な生存のハードルは確かに下がってはいる。しかし、それでもなお死にたさを抱える人は少なくない。

 今後数年で、あるいは数十年で、それらの人々が救われるとは断言できないだろう。彼らは一日一日の辛さの中で生きているのであり、「本質的な解決が先」と言われるのは彼らにとっては解決を拒否されるように感じられるかもしれない。一日でも早く解放されたくて自ら死を選んだ人たちや、それに失敗してさらなる苦しみを背負ってしまった人たちにとって、理想論より安楽死のほうがずっと希望であっただろう。

 最近は経口避妊薬を薬局で取りあつかえるようにという動きがあるようで、それに対して「日本の性教育は不十分」「安易に使えるようにすべきでない」といった反対意見があるようだ。これも同じ話で、性教育の充実であったり、男女とも避妊への意識を高めたりすることが根本的な解決策ではあるのだが、それが現状できていないし、すぐにそうはならないからこその対処として経口避妊薬の入手簡易化という動きがあるのである。

 何でも理想的な根本的解決を目指すことはよいのだが、しかし「そっちが先!」といって今起きているミクロな問題への対処法を潰してしまうのは、それは違うだろうと思う。あなたは問題の根本的な解決のために犠牲になってくださいねと言っているようなものである。難しいのは承知だが、ミクロな対処をしつつ全体的な解決を目指していかないといけないんだろうなあと思った。

 それにしても「○○が先」論者、「人類の諸問題の解決が先だからそれまで生殖はダメ!」論には賛成してくれますかね…。

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