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苦痛と生の喜び

 Twitterに少し書いたことの続きというか詳しいものというか。

 人生には必ず苦痛が伴うし、それにより人生が本人にとって悪いものになる可能性もあるのでは、というのが反出生主義の出発点なのだが、それに対し「苦痛も人生の一部でそれがあるからこそ喜びや幸福がある(増す)」という意見を見ることがある。

 確かに苦痛に耐えた先にそれを上回る達成感や喜びが得られることは否定できないだろう。山登りやマラソンが思いつくし、さらに広げると仕事も頑張って給料をもらったりやりがいを得たりするという意味ではそうだ。苦痛を生の喜びの一部ととらえられる認知自体は適応的でよいと思うし、本人がそういう考え方で人生を充実させているならそれ自体には何も言うことはない。

 ただ、その人がそう思っていることで出生が肯定されるかというと、そうではないと思う。苦痛も生の喜びの一部という考え方が万人に、どういう状況でも可能なわけではないと思われる。あなたがそう考えているからといって、あなたの子供もそう考えるわけではない

 先ほど(Twitterでも)少し言及した山登りを例にすると、ある人が「山登りは苦しいこともあるが、登り切ったときの達成感は素晴らしい」と考えることは全く問題がない。山登りという趣味を楽しんでいるだけだ。その人は周りに「山登りは苦しいこともあるけど、達成感が味わえるよ」と勧めるかもしれない。これも何ら問題のないことだ。実際に山に登るかは勧められた人の自由である。きついのが嫌なら登らなければよい。

 しかし、いくら山登りが好きだから、そのよさを広めたいからと言って、無理やり山に連れてきて登らせるのはよくない行為である。連れてこられたほうが山登りを楽しむ可能性もあるが、一方で山登りの魅力を理解できず、ただきつい思いをするだけの可能性だってある。

 出生の場合、産まれてくる前の人間にに人生について説明したり誕生に関して同意をとったりすることができないため、産むにせよ産まないにせよそれは生まれる側にとっては強制となる。そのため、出生というのは山登りの例では「無理やり登らせる」のと同じになる

 人生には苦しいこともあるがそれも生の喜びの一部だという考えのもとに生きるのは否定しないが、それでも苦痛の伴う人生を人に強要するのがリスクのある行為であることに変わりはない。親がそういう認知を持っていれば子供もそう考えるようになるとは限らないのである。また、苦しいことも生の喜びの一部と考えられるくらいのバランスで苦楽があればまだいいが、そう考えられないほどの苦痛を経験する場合も考えられる。戦争や貧困の中で苦しんでいる人の前で、「人生の苦痛も生の喜びの一部」と言えるのだろうか。

 私にも全く苦痛のない人生がとても幸福かと言われると疑問に思うところはある。単に快の基準が上がって、今までは「普通」だったことが「不快」になるのではないかとも考えられるし(昔の人が今ほどに臭いや清潔感を気にしただろうか?)、ある程度の不快があったほうが反動で快を大きく感じるとも考えられる。しかし、そのような理由で仮に今生きている我々にとってある程度の不快が有用であると言えるとしても、それは苦痛の伴う人生を出生により強要してもよい理由にはならないのではないか。溺れたほうが呼吸のありがたみがわかるかもしれないが、それは人を海に突き落としてもよい理由にはならない。

 先ほど、親が「苦痛も生の喜びの一部」と考えていたとしても子供がそう思うとは限らないという話をしたが、逆に親が「苦痛の伴う人生はよくない」と考えていたとしても子供もそうとは限らないとも言える。子供が人生についてどのような認知を持つかは本人と環境次第である。反出生主義者が仮に子供をもうけたとしても、その子が反出生主義者になるとは限らない。

 しかし、山登りをさせられて苦しい思いしかしなかった人はそのことで残念に思うだろうが、山登りという行為自体を知らないままにその達成感を味わえなくて後悔する人はいない(明治の人はスマホを使えなくて後悔しただろうか?)。苦痛が生の喜びの一部とあなたが思う分には否定しないが、そういう認知をしないとやっていけないような人生を他人に強要するのは、そのような考えだけで肯定されるものではないだろう

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