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反出生主義の「押し付け」

 反出生主義に限らず、発言権のない第三者の権利に関する問題は二つの押し付けを含む。すなわち議論の対立意見派への押し付けと権利が問題になっている第三者への押し付けである。反出生主義の場合、既に生まれている人には子供を産まないことを求め、まだ生まれていない人からは誕生そのものを奪っている。

 誕生を奪うと言うと聞こえが悪いが、生まれなかった本人は「自分が生まれなかったこと」を認識できないため問題にならないはずだと反出生主義者は考える。一方で生殖をする人が子供に押し付ける「人生」のほうが、危険度が高く問題だというのである。

 まだ生まれていない人間は当然のことながら生まれたいか否かを考えることはできない。そのため彼らが生まれたほうがよいかを考えられるのは我々既に生まれた側であり、生む生まぬのどちらにせよそれは今から生まれる人にとっては「押し付け」である。ではどちらを押し付けるほうがよいですかというところで意見が分かれてくる。

 そしてここで意見が分かれた両者にとって「互いの意見を尊重しましょう」で共存するという道はない。なぜなら、ここで問題になっているのは「私」「あなた」ではなく「私・あなたの子供」に関してだからである。反出生主義が「押し付け」にならざるをえないのは反出生主義者にとって「私の子供の出生」も「あなたの子供の出生」も同様に阻止すべきものだからである。

 逆に「出生主義者」の考えでは「私の子供」も「あなたの子供」も生まれるべきなので出生主義を押し付けることになる。ただ出生主義と反出生主義は現実に二分されているわけではなく、両者の間に出生肯定派(自分の子供はもつが子供を持たない人を否定はしない)と出生容認派(自分は子供をもたないが他人の生殖は否定しない)がおり、むしろそちらが大多数であろう。生殖をするかしないかは人それぞれとする彼らが反出生主義を押し付けがましく感じてもおかしくはない(出生主義は現に「ハラスメント」になりつつある)。

 ツイートの後半部で「反出生主義者が出生主義を押し付けるなと論じる」とあるが、ここまでで書いた通り反出生主義も「押し付け」であることに変わりはなく、確かにあまり説得力のある論法とは言えない(もし「あなた方が子供をもつのは構わないが私に出生主義を押し付けるな」という主張であれば、それはチャイルドフリーと呼ぶのがふさわしい)。擁護というか、そのような言葉のわけを考えるとするなら、現代社会は「出生主義」そのものこそ昔ほどの勢力はないものの依然として出生肯定派が多数であり、「子供をもって一人前」「早く孫の顔が見たい」といった風潮は反出生主義よりずっとよく見られるものであるからだろうか。

 しかし反出生主義が「押し付け」であるとはいえ、現在その力はたかが知れている。子作りの現場に避妊具を持った反出生主義者が踏み込んでくるわけでもなく、せいぜいTwitterで反出生主義的主張がたまに流れてくるくらいであろう。先進国の少子化は反出生主義のせいではないし、反出生主義を掲げた政党が躍進する気配もない(そんなのあるのってレベルである)。他人の生殖をどうやって阻止するかは反出生主義者にとっては大きな課題だろう。

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