見出し画像

3月11日、あの日。

 午前中にあらかたのことを済ませた。あとはどこまで娘が機嫌よくお昼寝ができるのか、がポイントだった。
 12月に生まれた娘は、あと数日で3ヶ月になるけれどまだ頭を持ち上げることはないし、寝返りもまだまだ。同じ月齢でも早い子はもう体を起こすのだとネットの情報で見かけて気が落ち込む。
 どうやら、少し成長がのんびりなのかもしれない。
 ふと、もしもこのまま……などと今しなくてもいい心配が頭をもたげてきて、ひとりの時間を余計に孤独にしていた。
 昼が来て、午後が来た。カナダから連れて帰ってきた2匹の猫たちはのんびりとあくびをして、窓際の暖かな陽の光を浴びている。
 1匹の猫、ミックスカラーで長毛のチョコがおなかを見せて伸びをして、あくびをした。黒っぽい毛色の長毛、カカオが娘が眠る側にやってきて、寝転がった。
 
 2匹とも、保健所上がりの保護猫である。太平洋を渡って一緒に生きてくれた2匹の、穏やかな姿を見ながら遅めの昼を簡単に済まして、ぐずり始めた娘を抱き抱えた。午後3時から石原都知事が記者会見をするという。
 正直いうと、そこまで深い興味があったわけじゃない。
 ただ、そこにソファとテレビがあって、私は3ヶ月の赤子を抱いていた。
 会見が始まる15分前に、テレビには石原都知事と番組の予報が流れて、ああ、もうすぐ始まるのだな、と思った。

 その時だった。
 ガクン、と部屋が揺れた。娘と私がいるソファにいたカカオは起き上がり、すぐにソファの下へと潜り込んでいった。
 ああ、地震か、と思った。
 地元の山口と比べて東京、関東は頻繁に小さな揺れがくる。
 けれどその時は、またその類かと思う暇もなかった。
 ガタガタガタガタガタ、部屋が激しく揺さぶられるような、姿勢を保つこともできない揺れが襲ってきた。
 棚の上からものが落ちる音が響き、テーブルの上や本棚からも落下する音とぶつかる音が続いた。
 意味がわからないほど、激しく揺れた。上下の揺れなのかも左右の揺れなのかもわからないくらい、ひどい揺れの中でただ腕の中の娘だけは守らなければと、ただそれだけしか頭になかった。

 揺れはひどく長く続いたように感じた。少し収まったと感じたのは数分後だっただろうか。つけっぱなしになっていたテレビの画面に目を向けて、言葉を失った。
 緊急速報、地震発生。
 緊張の走るアナウンサーの言葉が、非常時を知らせる画面がそこにあった。
 震源地はーーーー
 震度はーーーー
 被害状況はーーーー

 東京の下町、古いマンションの我が家はまだ揺れていた。窓から見える電柱がおかしな具合に揺れていて、そしてテレビの中には悲劇としか表現のできない光景が広がっていた。
 街が、人が、命がーーーー
 けれど、画面のこちら側からははなにもできない。
 なにも。
 ただ、腕の中の娘を抱き抱えているしかできなかった。

 …………これが、12年前の私の記憶になる。
 正直、わざわざ文章にするほどではないのかもしれないなと思うけれど、東京にいた私ですら、本当に怖いと思った。
 そして、その後に続いた津波と、原発と。あの日、つけっぱなしのテレビの向こうにあった光景を一生忘れることはない。絶対に、忘れようがない。
 そして思い出すたびに、悼む思いを新たに、手を合わせる。

 連載中のとは少し毛色の違う内容でしたが、Twitterの140文字ではとても書けない内容だから、noteに。
 
 合掌


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?