2024年7月24日 水よう日
ひさしぶりの日記。すっかり夏になった。まいにちたのしく過ごしているうちに。
去年の12月に病気だったころ、あまりTwitterでつぶやかずにひたすら日記を書いてそのリンクを投稿していた。それは、Twitterにぽつぽつと短い文章でしにたいということを連投するのが、なんだか恥ずかしかったからだった。どうしてそう思うのか、何を考えているのか、ある程度の長さの文章にして、整理したほうが、自分にとっていいだろうと思って、日記を書きはじめた。
いまはすっかり、まいにちたのしくしあわせなのだけれど(驚いたことに)、それでも病気になったきっかけの前の部署のことはよく思い出す。同じ職場なのだからしかたがない。前の部署自体の話になることもあるし、前の部署にいるひとの話になることもある。なんだかんだ言ってふつかにいっぺんはかならずなにかしら思い出している気がする。かなしいことに。
思い出すたび、やっぱり前の部署にはほろびてほしい、と思ってしまう。
そう思う自分を見つけてがっかりする。
つまり、自分の感じたことを、自分以外の人によっても、認めてほしいということなのだ。
わたしだけがあの部署の労働環境を劣悪だと思っていたわけではない証拠として、あの部署の業務が回らなくなって大きな事故が起こればいいのに、と、思ってしまう。
どうして自分の感じていることや考えを、自分以外のひとにも認めてもらいたいと思ってしまうのだろう、と、考える。
自分がそう思っていて、そこに自分なりの正当性を見出せるのなら、それでいいじゃないか?
どうしてわたしは、そしてわたしだけではなく人間存在は、自己だけで完結しないのだろう。
どうして、他人を、権威を、求めてしまうのだろう。
でもそんなのは当たり前だという気もする。
だってわたしたちはひろいひろい草原に一人ぽっちで生きているわけじゃないのだから。
人口は力で、近代化された社会の恩恵にあずかることではじめて、このくそ暑いなかでもクーラーのきいた快適な部屋でふとんにくるまっていられる。
自分だけで完結したいのに、いっしょうそうできないのだろうという直感が、なんだかもう、生きているのがめんどくさい気にさせる。
しにたさは、めんどうくささににていて、うんざりという表現が、いちばん近いんじゃないだろうか。
自立した存在になりたいものだ(もしそんなものが存在しうるなら)。