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いろいろな自分とお釈迦さま

今日アップした「実はウサギだった」をノート(NOTEの記事ではなく、記事を下書きしている本物のノート)に書いたのは九月末だった。そして、十月半ばに書いたのが、次の文章。まったく推敲せずに、そのまま書き写します。

「わたしといえる最後の砦、認識力すら変動する、とわかった。かつ、それは自分ではなく”すべて”の力だとわかったとき、ほんの一瞬だけど、自分がいなくなった。認識している力も、認識されている諸物も、わたしではないからだ。そうであるなら、どんな自分も成り立つことになる。
 認識されている諸物こそ、その組み合わせの妙こそが”わたし”といえるし、聞こえている音の一音こそ、”すべて”と”すべて”の出会いこそがわたし、ともいえる。
 体中の細胞の統合体であるわたしもいるし、多勢の祖先のトップランナーとしてのわたしもいる。人間の意識は、そのたくさんのわたしのうち、社会的なわたしに焦点があたりすぎているだけ。わたしは、たしかに戸籍名のわたしだし、このnoteという場では月見原ちよでもある。
 認識力としてのわたしだけを、わたし、と思うのは無理がある。あー、どうしよう。音を聞いている、と思っていたけれど、この音の一瞬一瞬だけがわたしなのか。
 あれ!
 では、わたしの愛はどうなる? スクリーンである全世界へと広がっていく、その世界を感受するから、放ったものを受け取るのは当たり前だ。基点が”わたし”にある限りそうなる。スクリーンを変えることに興味がもてるか? おしゃかさまは、この一瞬一瞬へアイデンティティをおいたってことなんだろうか?
 この一瞬ずつにアイデンティティをおくことなんてできるのかな? 認識力におくことも難しいけど。」

「台所の床が光っていた」からの一年、基本的にはずっと幸せで、だけど、仏教の裏切り者になってしまったのかなあと心苦しかった。十六年間、ずっと仏教がいちばん正しいと信じていたのに、この一年で、お釈迦さま以前のインドに由来するであろう、梵我一如の考え方に戻ってしまい、その考えに基礎をおくことによって心安らかだったから。
 だけど、上に書き写した「あー、どうしよう。」のところで、わたしは仏教徒に戻ったのだと思う。お寺で正式に習ったわけではないので、あくまで我流の、わたしが思う限りの仏教に対して、なのだけど。

「神様探しの現時点での結論」は書き直さなくてはならない。
この十月末でのわたしは、「すべて」に由来する認識力をわたしだとは思っていない。
世界の諸物、さまざまな精神、すなわち認識される「すべて」と、「すべて」によってもたらされる認識力、それがぶつかって生じる、一瞬ずつが、「わたし」であり「すべて」であると理解した。
 理解はしたけど、この一瞬ずつと一体化しているわけではない。ただ、「わたし」という実体を、それ以外に想定することは、もうできない。

 慣性の法則が働いていて「ウサギちゃん」(個性としてのわたしのこと。「実はウサギだった」を参照ください)は、まだ健在だけど、いまのわたしは、この一年間、思い続けてきた「わたし」ではない。もちろん、一昨年までの「わたし」とは別人に近い。これからの生き方を考えなくちゃ、と「ウサギちゃん」は言っているけれど、考えるまでもなく変わっていくことになるだろう。

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