能力が高い人には課された使命がある

お久しぶりです堀内です。最近、ツイッターを見るのをやめてから精神的にとても健康になっている反面、アウトプット欲ばかりが溜まってしまっていたのでこちらで発散させていただきます。

先日、メンタリストのディエゴさん(仮名)の「ホームレスよりも猫ちゃんが大好きです」みたいな発言が話題になり炎上していましたね。

別にこの件についてどうこう言いたいわけではなく、ぼくは日々考えていたわけなのです。「能力が高い人が、能力が低い人を見下すのは、なぜいけないことなのか」と。

その理由は「高い能力には、その人の頑張り以外の要因があるから」からだと思っているのです。

みなさんの周りにもいませんか?「能力が高い人」そして「能力が低い人」

例えば、運動神経が良くてイケメンで頭が良くて優しくてお金を持っている人。羨ましいですね〜!その反面、これらを1つも持っていない&できない人も存在しています。

狩りや戦争が身近でなくなった現代の日本では「足がはやい」などの運動能力はほとんど必要とせず、せいぜい中学生くらいで他者から得られる評価も天井がみえてきます。資本主義を生きる我々に必要な能力は、仕事や勉強などのインテリジェンス能力、いわゆる「知力」がものをいう時代なのではないでしょうか?

現代において「知力が高い」ことで得られる恩恵はたくさんあります。まず生きてく上でとても重要な「お金を稼ぐ」ことができます。さらに勉強ができるので頭もよくなって「褒められたり」「自信をつけたり」することができますよね。

もちろん、芸術能力・運動能力・音楽能力なども素晴らしい能力ですが、知力に勝るほどの恩恵は受けられないかもしれません。(ここで言いたいのは「お金が全て」という思想ではなく、現代を生きる上で恩恵が多いか少ないかという論点で展開しています。)これらの能力が特に秀でていた場合は、良い意味でとんでもないバケモノとしての人生を歩むことができることもありますが…

芸術能力や運動能力など、知力に限らず、様々な能力が高くなるには3つの要因があると仮定します。

それが「才能・環境・努力」です。他にもあるんでしょうが、一旦この3つと仮定させてください。この3つをよくみてみると…

2つは運だよね?

1.才能

まず「才能」

才能とはなんぞやという議論もありますが、ここでは「先天的な能力」とさせていただきます。遺伝が人間の能力に関係する割合は想像よりも高く、30〜60%(能力により変化する)も影響するのだそうです。

ぼくも若い頃はこう思っていました。「どんな苦手なことも、努力次第で変えられる!」もちろんその心意気は大切ですし、試してみた結果得意なことになったケースもたくさんあります。ですが、割と大きな割合でその人の能力というのは大体決まっているらしいのです。

しかも、どの能力が高いのか、そしてその能力は現代で通用するのかという点も、生まれてみないとわからないのです。

みなさん「縄文時代」を覚えていますでしょうか?動物に石を刺しては貝塚にちまちまゴミを捨てていた彼らを覚えていますでしょうか???

歴史の教科書の最初の方でしか登場しない彼らは、狩や採取を行なって生活する「狩猟民族」です。我々人類はどのくらいの期間そんなことをしていたんでしょうか、それはなんと約600万年。人類はその歴史のほとんどで狩猟を行っています。

知力を必要とする資本主義が本格的に発展していったのは、1760年以降で、たったの250年程度です。

つまり、足が速くて目はいいけど頭が悪い人は、前半の600万年の間のどこかに生まれていた方が輝けたのかもしれません!頭のいい人たち、この期間に生まれて本当にラッキーだったね!(それ以前も知力を必要とする時代があったのは間違いないですが…笑)

結論:才能は運じゃん

2.環境

次に「環境」

才能に少し似ているところもあるのですが、生まれる国・生まれる家庭・生まれるタイミング。これらについても、生まれてみないとわかりません

よく「日本に生まれた時点で勝ち組」みたいな話もききますが、あながち間違いではないと思っています。蛇口をひねれば水が飲めるし、ちょっと歩けばコンビニがあって、ほとんどの人は屋根と壁がある家に住むことができます。治安もよくて戦争も長いこと起こっていない。能力を高めるにはもってこいの国ですね!

ただそんな国でも経済格差が生じています。お金持ちの子はお金持ちになり、貧乏の子は貧乏になる。「絶対こんな生活から抜け出してやる!」というハングリー精神が養われて、成り上がる人もいるかもしれませんが、残念ながら家庭の経済状況は子供の知力に影響を与えます。狭い部屋での学習は集中力の欠如につながってしまうし、脳への栄養不足による知力低下など。負のスパイラルの渦中にいる子供たちが近所にもいるかもしれませんよね。

どれだけ才能に恵まれていても、どれだけ努力する人間性を持ち合わせていても、国や家庭環境によっては全く花開かない人もたくさんいるのだと思うのです。

結論:環境も運じゃん

3.努力

最後に「努力」

これに関しては言い訳はできません。この国に生まれ、平和に暮らし、環境にも恵まれて、暇を謳歌しながらも、なにかを成し遂げたい人ー!

いますぐスマホを閉じて、「努力」しましょう!

これだけはいますぐできます。だれでもできます。努力だけは、運ではない。自分たち一人ひとりの、その瞬間の決断の連続で叶えることができます。

無理しようとはいわない!できる人とやりたい人は、努力しよう!

結論:努力は今すぐやれ

んで、結局なにが言いたいかと言うと…

ここまで話した通り、人間の能力に関しては運要素が多めなんです。だから人生をあきらめましょうとか、能力の高い人を妬みましょうってことではなく。

ぼくやあなたにも、備わっている「高い能力」がきっとあるはずです。でもその能力はもしかしたら「親から授かった(才能)」のかもしれないし「たまたま通っていた学校(環境)」がきっかけになっていたかもしれない。

もちろんあなたはその能力を開花させるために、たくさんの努力をしたと思います。人並み外れた努力、その経験を持ってして高めた能力が、自分の自信に繋がっていると思います。

その高い能力であなたはきっと社会に価値を提供し、他者からの評価やお金を得ることができます。

だけど、ちょっとだけ覚えておいて欲しいのです。

もしかしたら「努力だけではないかもしれない」と。

才能や、環境が「そうさせてくれたのかもしれない」と。

そういった考えの余地を持っておかないと、努力で能力を開花させた人はこう思ってしまうのです…

おれの能力が高いのは、おれが努力したおかげだ!」と。

間違っていないのかもしれませんが、100%正しいとも言えません。だって運要素もたくさんあるからね。

今の成功が、全て自分のおかげだと思い込んでしまうと、その逆の「失敗している人」や「弱い立場の人」は、「努力不足だからそうなっている」という方程式が成り立ち、世にも恐ろしい自己責任論者が生まれてしまいます。

頭が良くてお金を持っている人に「おまえがバカで貧乏なのは、おまえのせいだ!」って言われるの、めちゃめちゃ嫌じゃないですか!?

じゃあアンタ、6畳一間の5人暮らし、毎日空腹状態で何時間も勉強できますか!?っちゅう話になるわけですよ。

あなたが親や偶然から授かったかもしれないその能力は、ぜひ「それができない人間を救うため」に使って欲しいのです。これはぼくの願望でしかないですが。

それこそが、能力の高い人に課された使命であり。このような考えから生まれてくる感情こそが「感謝」と「謙虚さ」であるとぼくは思うのです。

現代を生きる上で、影響力が高くてお金をたくさん稼ぎ、素敵な異性に恵まれる人はとても有意義な人生を送ることができると思います。だけど、そのベクトルを、ほんの少しだけでも、弱い人たちや、能力の低いひとたちに向けてはくれやせんでしょうか?無理にとはいいませんので!なんとかお願いしやす!

そうやって良い意味でデコボコが混ざり合い、お互いを補い合う社会になっていけば、調和のとれた世界に少しだけ近くかもしれないですね!

ぼくは「論理的思考力」「言語化力」「分析力」「発想力」「ユーモア」が比較的高いと自己分析しています。これらの能力を使って、社会になにかしらの価値を生み出しながら死んでいくような人生を歩めたら幸せだと思います。

みんなはどんな能力が高いかな?

その能力でぼくを助けてね〜!


飢えをしのがせていただきます。