存在と世界 4

第四:死者とはいかなるものなのか

1.死と死者の存在論的考察

存在論的に言えば、死者とは非実在の存在者である。もっと詳細に言えば、かつて実在であったが、今ではそうでは無いもの、既-実在としての存在者である。しかし、これ以上に、死者とはわれわれの実在世界において、単なる非実在者よりも、遥かに深い関係性を持った存在者であると言えるのだ。
死はわれわれに確実にやってくる運命である。死から逃れられる生物は、今のところ存在しない。たとえ不老不死の生物がいたところで、それが外敵によって殺害されるのであれば、「いつかは」死ぬのであるし、真に不老不死であったとて、それが不老不死であるためには現実の永遠性が必要となる。現実が永遠に続かないのであれば、不老不死者もまた現実の終焉と共にその生命を終えるのであるから、決して完全に不老不死であるとはいえないのだ。
さて、不老不死では無いわれわれにとって、死とは明日、いや十分後にやってくるかも分からない運命なのだ。しかも、この死は誰かほかの物によって肩代わりすることができない。しかも、自らの死は自らによって経験できない何某かなのである。ここで、「死とは我々には関係ないものである。」というストア的解釈は有効では無い。私が死ぬのであれば、私にとっての私、すくなくとも、この世にいる私は終わりを迎える。誰も死について見たことがないのだから、われわれは、われわれが死んだあとどうなるのか、について何も確実なことを知ることがない。ただ、死者がわれわれに対して何も残さぬか、死者がただ「生き終わったもの」としてなんの意味を持たぬか、と言えばそうでは無い。死者は、われわれに対していくつものものを残している。

2.死者がわれわれに残すもの

死者はわれわれに対して有形無形に限らず様々なものを遺していく。われわれ生者は、それを通じて、死者、正確に言えば現世に遺された死者の息遣いと、語らうのである。これを「形見」と呼ぶ。形見とは、根本的に言えば死者が生きていたという証なのだ。この世でどのように悲惨に生きていたものであっても、誰からも忘れ去られたようなかたちで死んでいったとしても、肩身は、遺されることになる。ただ、生者であるわれわれが、形見から目を逸らしているだけなのである。
死者が遺して行ったものに目を逸らす社会は、もっとも貧困な社会の一つである。現実に豊かである社会でも、葬式を行わない社会、死者について忘れさろうとする社会は、もっとも貧困な社会なのである。
死者の息遣いは、決してあちらから語らうことがない。ただ、われわれが求めることによってのみ、語らうのである。死者は、決して自ら語ることがない。加えて言えば、死者は語らない。ただ遺していくだけなのだ。その遺していった形見から、いかにして言葉を聞くか、これこそがわれわれ生者に求められているものなのだ。

3.死者の遺すものは希望である

死者の形見は追憶を呼び覚ますものである。しかし、形見はそれと同時に、未来に向けられたものでもあるのだ。かつての偉大な思想家たちが残したテクスト、思想は、まさしくわれわれが思い出し、語り続ける限りにおいて、未来に向けられた、未来に対して開かれたものであり続ける。偉大な人物でなくとも、死者が遺して行ったものというものは、未来に向けられた、ひとつの希望なのである。


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