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対物性愛者、愛するものと再会するの巻

去年の秋、わたしは初恋をした。
相手は人間ではない。日本刀である。
期間限定の企画展で出会い、4度まみえ、恋だと思った。わたしは対物性愛者だ。

これは、その刀に一目惚れをしてしばらくしてから冷めやらぬ思いのままに書いた記事である。割と読んでいただけているようで驚いた。

さて、わたしがあれに恋をしてからまもなく一年が経とうとしている。
その後どうかというと、嬉しいことに、今年の秋、常設展示にてあの刀が展示されているのである。
展示開始日はわたしの誕生日の前日だったので、展示二日目、平日だった誕生日に休みをとって刀に会いに行った。

実は、あの記事を書いてから、わたしは少し不安だった。
だって、ものに恋をするなんて正直言って正気の沙汰ではないではないか。本当に恋をしているのか、ただの勘違い、企画展の空気に当てられただけではないのか。  そんな考えが頭を離れなかった。

いざ今秋、展示を見に行き、たっぷり1時間、刀の前にいた。やはり、好きだと思った。

要するに杞憂だったのだ。それもそれで正気ではないということになるのでどうかとも思うが。

わたしはやっぱりあの刀が好きで、叶うことなら触れてみたくて、でもわたし如きが触れるなんて恐ろしくてとても無理で、でもやっぱりガラスケースがなければななんて思う。

展示開始から2週間が過ぎるが、3回見に行った。何度見ても好きだと思うし、本当は今日だって仕事を放り出して博物館に駆け込みたい。

正気ではないなとは思う。でも、何度考えても、ただ相手がものであると言うだけで、なんてことはないただの恋だとも思う。
あれから数人の信頼できる友人に話してみたが、今のところみな受け入れてくれている。ありがたいことだ。
でも、いつ誰から拒絶されるかわからない不安は常に抱いている。特に、家族にはやはり絶対に話せないなとも思う。

わたしは、正直言ってしまって人よりものの方がよほど好きなのだ。
人は、わたし含め純粋ではないし、誰かを拒絶してしまうこともあるし、邪悪さもどうしたって持っている。
でも、ものというものは、とても純粋にそのもののアフォーダンス(動作の可能性)を抱えており、誰に対しても分け隔てなくその力を与えてくれる。その美しさを、こんな矮小なわたしにも、なんの曇りもなく見せてくれるのだ。こんな優しいことがあるだろうか。

そして時たま、ものは気まぐれに目を合わせてくる。対物性愛者じゃない人だって、「一目惚れして買ってしまった」「一度見たあれが忘れられない」と言う経験はあるだろう。 わたしの恋は、その経験の延長線上にあるのだと思う。

あの刀の展示は、冬までやっている。
何回見に行けるだろうか。博物館まではそこそこ距離があるので、交通費がバカにならない。でも、展示しないときは数年しないようなので、できる限り見に行きたいと思っている。

ついでに、模造刀も買ってしまった。写真で見る限り刀身に彫られた溝の形が違うのだが、刃文は「写し刃文」と書かれていたので、まあ最悪違くともあれの名前を冠するだけでも、と思った。

そういえば昨夜は模造刀が届いた夢を見た。
現実では、来週届くらしい。


あの刀のおかげで、今日も生きている。より善くあろうと思える、あの刀の前に立った時に恥ずかしくないように。

もしも万が一、今後全く別の人やものに恋をしたとしても、わたしはきっと、あの刀のことを忘れはしないのだろうと思う。

わたしはきっと、死ぬまであの刀の末永い健全さを祈り続けるのだ。

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