流派を問わず、心理治療者は、自分の用いる技法を、自分自身に対して刻々と「適用」できることができる必要があるのではないか? それが「関係性」中での治療を生じさせる前提ではないか?
#フォーカシング って、それを学ぶ臨床家自身が意識的「技法」として学ぶ域を超えて、日常生活の中で「条件反射」になるくらいに「身につけて」しまって、その効能に恩恵を感じるくらいのところまで行って、はじめて持ち味とその人なりの活用法が見えてくるものだと思う。
このネットでの私の言動すべてが、実は「条件反射」の域まで血肉化されたフォーカシングの「実践」そのものなのだ。もとより個々の発言に何も誤りや行き過ぎがないわけではないのは自覚しているが、それを「軌道修正」する能力自体がフォーカシングの統御下にある。
精神分析の人ですら、日常の中でそこまでほとんど自動的に自己分析できるべきだし、認知行動療法の人も、日常の中で自分のスキーマを刻々と自覚し、修正できるところまで行きつけるべきと思うが。それができれば、実はクライエントさんに何も特別な「技法」を用いようとしなくても、なぜか面接はうまくいくと思う。
要は、臨床家の側が、絶えず日常や面接場面で自分の無意識にアンテナを張れたり、自分自身の認知の歪みに刻々と気づけないまま、クライエントさんの側にそれを引き起こそうとしてもうまくいかないのは当然だと思うのだ。
もちろん、全ての技法を自分で自分に用いるだけでは自分で超えられない限界はあると思うし、自己満足になる危険もある。自分がその技法を専門家との間で施してもらう(互いに役割を交換して関係性のなかで意識的にやる)機会を定期的に持つことは大事だと思う。
言い方を代えれば、クライエントさんの側に生じる心的メカニズムは、カウンセラーの側にそれに相応する心的メカニズムを誘発するし、カウンセラーが自分の心的メカニズムの限界を克服できれば、クライエントさんの側にもそれに相応する心的メカニズムの克服を誘発するのではないか。
私の考えでは、「関係性における治癒」とはそのようなものだし、実は流派に関係ないのではないかとすら思っている。「意識的な」技法はその上に乗っかっている程度のものではないか? これは精神分析でいう「治療者の逆転移の活用」とかいう理屈を持ち出さなくとも普遍的なのでは?
例えば、治療者の側がリラックスできていない状態で、クライエントさんの側にだけリラクゼーションが効果的に生じるのだろうか?
私はこうした「関係性」の問題を無視して、「客観的『エビデンス』」を証明しようとしても、無理が出て来ると思う。・・・というか、エビデンスを証明しようとすれば、こうした治療者側の因子も測定して、はじめて正確な証明ができるのではないかと思う。
こうしたことは、単に物質的薬物の治験の場合には考慮しなくてもいいことであろうが、治療者との関係性自体が治療的因子になる心理療法の場合には考慮されるべきと思う(もっとも、物質的薬物療法の効能すら、治療者との関係性から完全に自由ではない気もする)。
実はこのように考えてくると、カウンセラーが面接室の外側の世界でどのような言動をどのような範囲でしていくかの指針と可能性も自ずから見えてくる可能があると思う。
精神分析系の人なら絶えず自己分析をしながら、認知行動療法系の人は絶えず自分の認知の歪みに敏感であり続ければ、どのような発言や行動を「社会」に向けてしていけるかが自ずから定まるのではないか? もちろんこれだけでは「十分」ではないかもしれないか、「必要」ではあるのではないか?
今述べてきたような次元で、心理専門家自身が自分の用いる技法の自分自身への「日常的」「条件反射的」適用を「身につけて」いれば、心理療法がクライエントさんの、「特別な密室」の中での「癒やし」体験などではなく、現実生活の中での言動の変化(他者への影響力の変化)を誘発する域に達すると思う。
「治療者は、自分が行き着けたところまでしか、患者を導けない」・・・ユング「心理療法論」(林道義訳 みすず書房)。 ユングは「実用的」ではないと思われがちだが、実は相当現場臨床家に役立つ発言をしていると思う。
ある意味では、人格の成熟した完成、到達点などありえないと思う。人間は常に堕落の危機に直面しており、新たな事態に対応して行かねばならないのだと思う。もちろんこのことを現在の自分の失敗や限界の「言い訳」にしてはならないと思うが。
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