「問題」が先か、漠然としたモヤモヤが先か -私のフォーカシングの出発点-

フォーカシング技法は、初期の頃は、今の自分をOKな感じではいさせてくれない、気がかりな「事柄」(問題)についての曖昧で漠然とした「身体で感じる」ひとつの全体的な感覚こそフェルトセンスであり、その感覚に直接注意を向けていくもの、とされていた(ジェンドリン自身の「フォーカシング」参照)。

私はそれを逆転させて、今の自分をOKでいさせてくれない、漠然としたモヤモヤした不全感のようなものであれば、それが具体的に、どんな「問題」と関連しあっているかどうかはすぐにわからなくていいと考えた。

自分の置かれた状況や生活のあり方と、「どこかで」「何となく」感応し、響きあって生じている実感さえあれば、フェルトセンスである、と再定義した。

自分の生活の中で、容易になくならない正体不明の漠然としたモヤモヤが同じトーンで繰り返して生じ、どうあがいても、いつでも同じような堂々めぐりの結末にしか至れないから、そこに何か「問題」がある、と悩み、その原因や解決法を探すようになる、という順序のはず。

だから、まずは気がかりな「問題」をみつけ、それについてフェルトセンスをつかもうとするのは、逆方向、わざわざ川の流れを遡ろうとすることではないのか?

恐らくこの点だけが、私のフォーカシング技法の、独創である。

私のこのアプローチに、初来日時に、
「地球の裏側には、同じようなことを、同じ時期に考えつく人がいるものね」
と言って下さったのが、アン・ワイザー・コーネル女史。

その後の私の展開(特に“acknowleging“=フェルトセンスを、そこにあるのは「わかったよ」と『認めてあげる』こと重視)はアンさんからの感化によるもの。

・・・以上、フォーカシングに以前から相当関心を持ってきた専門家向けかもしれないことを書いておきましたが、一度まとめてしておきたかったことですので。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?