見出し画像

Sarcina §1 はじめに ー喫茶店のレモン水ー

 どこか遠いところに行きたい。
 知り合いや親戚、そのまた知り合いすら居ないような場所で、暮らしてみたい。
 見たことのない景色を、この目に焼き付けたい。

 いつだって、そう思い続けてきた。

 山がちでコンビニも無いような村落に育った僕にとって、"外の世界"は常に憧れだった。代わり映えのしない人間や出来事に擦り減らされる生活で、それは更に心の内へとどんどん染め込まれていった。
 ここ以外に、もっと素晴らしい場所があるはずだ、と。


― 数年後

10:38

 とんでもないことをしてしまった。

 後悔と寂しさが混じった感情が駆け巡る。腰ほどの高さもあるスーツケースと、暇つぶしに買ったあれこれが詰まった紙袋を手にして、僕は空港のロビーで立ち尽くしていた。目の前に、"蛇口からみかんジュース"の都市伝説をモチーフにした、シャンパンタワーのオブジェが陽の光に照らされている。

 ...ちっとも面白くない。

 飛行機に乗り遅れたわけでも、まして行き先を違えたわけでもない。これからの生活の舞台となる街に、何なら定刻よりも早く着いた。ただそれだけ。見送りの家族とは、向こうで暫しの別れを告げた。涙の一つもない、淡白なものだった。だから、まさかここまで激烈な寂寥感に襲われるとは思いもしなかった。

 世に言う"ホームシック"に、僕は空港へ降り立った瞬間になってしまったのだ。


12:25

 降りる電停を間違えたのか、それとも入る通りを間違えたのか。"10分もあれば着くはず"と言われた道のりを、30分以上かけてようやくアパートにたどり着いた。不動産屋で受け取ったばかりの鍵でドアを開け、それを背中で押さえながらスーツケースを引き摺り込む。

 空っぽの部屋では、キャスターの音すら喧しく響く。

 スーツケースを横倒しにすると、側に座って部屋を見渡した。
 バス・トイレ別、ロフト付き。家賃月3万ちょっと。一人で住むにはこのくらいでいいと思い、ほぼ即決した部屋だ。大学までは少し距離があるが、自転車であれば全く気にならない。むしろ、自転車さえあればたいてい事足りるというのが、この街の底から感じる魅力なわけで。

 休憩もそこそこに、まず自転車を手に入れて、そのまま乗って買い出しに向かう。テニスボールのように店とアパートを行き来しながら、少しずつ必要なものを揃える。窓枠の大きさを測り、カーテンを取り付けたところで、無機質だった空間にようやく部屋らしさが出てきた。

 ここが、これから4年間の住処となる。


15:00

 実家から持ち込む寝具やその他諸々は、翌日届くことになっていたので、この日は宿を取っていた。

 再び路面電車に乗って街の中心部に出ると、そこから更に歩く。10分ほどで、道沿いの古びたホテルにたどり着いた。予約のときに見た写真よりも、かなり年季が入っている。壁のネオンサインはホテルの"ル"の字が剥がれ落ちていて、そこだけざらついたコンクリートがむき出しになっている。窓越しに見えるカーテンは、手に取らなくてもわかるほど分厚い。道路側にある、バーともスナックとも取れるさらに草臥れた空間が、寂しさを増幅させている。

 正面と思しき方に回って、くすんだガラス戸越しに中を覗くと、すでに灯りはついていた。中に入ると、フロントで小肥りの男性がパソコンをいじっている。
『こんにちは。一泊で予約してるのですが...』

- / - / - / - / - / - / -

 チェックインを終えて部屋に入る。手入れされてはいるがどことなく埃っぽい。それに、禁煙室を予約したはずなのに、どこかでタバコの残り香がする。ベッドに横たわると、それが殊更に強くなって、暇つぶしに買った本を読もうとしても、全く内容が入ってこなかった。
 夕食にはまだ早いが、小腹が空いてきた。フロントにキーを預けると、再び中心街へ向かって歩を進める。



16:10

 田舎に居た時は日が傾くと肌寒さを感じていたが、ここは同じ3月だというのにまだ暖かい。必要になるだろうと、送る荷物から取り出したジャケットがじゃまになるほどに。
 風も、山地独特のサンドペーパーのように尖った乾きを感じない。むしろ海が近いからか、少し湿気すら帯びているような気がして、"これは夏が大変かもしれない"と、いらぬ先の心配をついしてしまう。

 ...海か。一度地平線に沈む夕陽を見てみたい。臨海学校のときは曇天でそれどころじゃなかった。それが学校生活でも片手に入るほど"つまらない"と感じていた時期だったから、いつのまにか頭の中から消されたのかもしれない。

- / - / - / - / - / - / -

 "好きなように生きろ"と常々言っていた父も、僕が"四国の大学に行く"と切り出すと、流石に止めはせずともかなり驚いていた。
 この地に来るまでの過程は、全て自分で決めた。
今の自分の実力で行けるところ。
やりたいこと、勉強したいことが叶うところ。
そして、知り合いや親戚が居ない、未知の土地。
 それらの殆どに合致した場所を見つけることができた。程なくして得た合格通知。その喜びと未来への希望が、知らず識らずのうち、初めて地元を離れる寂しさや、たった数週間で起こった凄まじい変化に心が追いついていない現状に、蓋をしてしまったようだった。
 その負の感情が、空港に降り立ってあのシャンパンタワーを見た瞬間に、ボロボロとこぼれ落ちてきたに違いない。なんだか、そんな自分がひどく情けなく思えてきてしまう。
 見知らぬ土地で暮らしてみたいとは思っても、孤独になりたいと望んでいるわけではなかった。仙人や修行僧のような、俗物から何年も隔てられた人であれば苦にはならないだろうが、大抵の人間は一人では生きることができない。それを思い知らされた気がした。


16:45

 昔から、考え事をするときは歩きながらするのが一番捗った。その勢いのままに歩を進めていると、古びた喫茶店の前にたどり着いた。ドアを引くと、金具が軋む音に、申し訳程度につけられたドアチャイムが重なり、奇妙な音色を響かせる。
 店内は"L"字を横倒したような形をしている。左手にはカウンターを挟んで窓際に2人用のテーブルが、入口から奥にはそれよりも大人数向きの広めのテーブルが並んでいる。カウンターが高いのか、それとも店主の背が低いのか、臍の辺りに有るべきテーブルトップが、彼の首元よりも少し低いところまでせり上がっているのに違和感を覚える。

『お好きなお席へどうぞ』

 ケトルを片手にこちらへ視線を向けた店主は、微笑みかけながらそう声をかけた。一瞬迷った後、窓際の2人席の一つに腰掛ける。さっきまで先客が居たのだろう。反対側の色褪せた椅子は、毛並みが乱れて斑になっている。几帳面に並べられたメニュースタンドやシュガーポットはこなれた気品を漂わせている。

 程なくして、ウェイトレスがお冷を持ってきてくれた。口に含むと、柑橘の爽やかな香りが口中を満たした。驚いてカウンターに置かれたピッチャーを見ると、中にレモンのスライスが浮かんでいる。
 その後に頼んだコーヒーもサンドイッチも美味しかったはずなのに、一番印象に残ったのが――言ってしまえばなんの変哲もない――レモン水だった。それからいろいろな"初めて"をこの地で経験したのに、何故かこのことは特に強く印象に残っている。

 寂しくなったら、またここに来よう。
 そう思っていたのに、そこからの怒涛の日々を過ごしているうちに、寂しさもすっかり消えてしまい、ここを訪れることは無かった。
 そして、何時ともわからぬうちに、喫茶店そのものも姿を消していた。


 けれども、未だに喫茶店でレモン水を口にすると、あの日心を満たしていた寂しさと、斑に褪せた臙脂色の椅子を思い出す。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?