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年齢変更の申し立てについて考える

週末に面白い記事を読んだ。オランダのある男性は70歳を目前にして、自分の年齢(生年月日)を法的に20歳若返らせてほしいという。

リンク記事からの抜粋だが、主な理由は以下のように思われる。
「現在私たちは仕事、ジェンダー、政治や性的指向を選ぶことができる。名前さえも変える権利がある。それならばなぜ年齢を変える権利はないのか」と話した。自身の医者によると、ラーテルバントさんの生物学的年齢は40~45歳の間だという。

この訴えを馬鹿げていると一蹴するのは簡単だが、「馬鹿げている」と論理的に説明するのは意外と難しく感じた。

まず一つ共感する指摘として、現在の人の肉体年齢は一昔の人の肉体年齢の7掛けだと私も聞いたことはある。それが正だとすれば、70歳のラーテルバントさんの肉体年齢は昔(どれくらい昔かはともかく)でいうと49歳となる。世間のイメージと自分の肉体年齢を近づけたい気持ちも全く理解できないわけではない。そして、名前や性別は正当な手続きを踏めば法的に変更できるのに、生年月日だけできないのはおかしいという指摘に対しも、これをどう否定すべきか考えがまとまらない。

名前はまだ否定しやすい。生年月日は客観的な裏づけがあり、それを変えるのは事実の改ざんになる。一方、名前は固体同士を分別するためのいわばラベルに過ぎない。本人が自分のラベルを気に入らなければ、それを変更することに違和感はない。

では性別はどうだろうか。性別も客観的な裏づけがあり、生物学的な性は生まれた時点で決まっている。現在では、一定の条件を満たせば性別を変更することができ、その主な理由は性同一障害だと理解している。

自分の心と体の性が一致していないのはきっと私が想像もできないような苦痛が伴うのだろうと思う。しかし、精神的苦痛が理由だとすれば自分の心身と戸籍上の年齢が一致しておらず著しい苦痛を感じる人がいてもおかしくない。

性同一障害は病気だから法的な対応が必要であり、年齢は気の持ちようだから自分で気持ちの整理をしなさいというのは個人的にはすっきりしない。性同一障害が広く認識されるようになったのはここ数十年と考えれば、いつか戸籍上の年齢も変更可能な時代は来るのだろうか。戸籍上の生年月日を変更しなくても、例えば、健康診断を受ける際に推定身体年齢のような項目を設置し、それを社会生活上の「年齢」とするのも面白いかもしれない。


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