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Swan Song(感想2)_人間同士の軋轢と、その先にあるものについて

『Swan Song』は2005年7月に発売されたビジュアルノベルで、シナリオライターには瀬戸口廉也が関わっている。ブランドはLe.Chocolatから。
以下、本作の中心人物となる6人についての感想を深掘りすることでネタバレを含む感想を。
作品全体についての感想はこちら。


八坂あろえ

雲雀の解釈によれば、あろえはナカマが不在のため周囲から孤立しているとある。善悪やモラルについての判断や思考は出来ないが、あろえなりの確固たるルールは存在する。行動理由はほぼ欲求に素直で、存在そのものがとてもピュア。

姉が亡くなってからは司や大智の会に保護されるなど環境は変化するが、あろえの行動に大きな変化は無い。人々が興味を示さないような単調な作業を得意とし、バラバラに壊れたキリスト像を復元するなど常人では不可能な特殊スキルがある。

司はツギハギだらけのそんなキリスト像をむしろ「すごく、いいと思うな」と言っていた。
人は生きていると心も身体もボロボロに傷付くことがある。司の場合は右手を怪我したことでピアノを思うように演奏出来なくなった。
それでも人生は希望を持って生き続けることにこそ意味があると考えているからこそ出た言葉だったと思われる。
つまり司は結果よりも過程を大事にしていて、生き続けることにこそ意味を持つべきと考えており、その努力が具象化されているからこそキリスト像に好感を抱いたのではなかろうか。
ツギハギだらけの歪なキリスト像は誰かの人生そのもののようであり、あろえにしか成し得ないことが具現化してそこに存在していた。

田能村慎

どんな逆境においても常にポジティブに思考しようとする努力家。実家が道場で幼い頃にそれなりに訓練しただけあって、刀を使った人を殺める技術に秀でており、精神的なタフさも持ち合わせている。

前向きな思考が雲雀と似通っていて、田能村が物事をロジカルに考えようとつとめるのに対して雲雀は感覚的だが、持っている価値観には近しいものがある。
その分悪意には鈍感だから、他者を信用しない鍬形から酷い仕打ちを受けがち。

田能村が自分を陥れた鍬形を憎みきれないのを、雲雀から「優柔不断」と指摘されていたが、それは皆が共存できる可能性を最後まで諦めらていなかったからではと考えている。鍬形を返り討ちにして取り巻きを殺してもいるので、決断力が無いからではないと思う。

地元では有名な道場で厳しい経験をしてきたのになぜかケーキ屋でバイトしていたあたりそれなりの辛い経験を経てきたからこそ、他者に対して寛容になれるのかもしれない。

元自衛官で頼れる大人だった飛騨が倒れた学校で、田能村は理想的なリーダーだったと思う。しかし米国でトランプが台頭してきたように、環境が悪化すると大衆は白黒を明確に区別する過激な指導者を望みがちで、田能村ひとりでは皆をまとめきれなかった。

川瀬雲雀

主要な登場人物のなかで、家庭に大きな問題を抱えていないと思われる存在。そのためか心の闇を感じられることがほぼ無く、雲雀の内面について深掘りされることはあまり無い。

深く考えることは苦手だが勘の鋭いところがあり、面倒見の良い面も。
あろえのような存在を集団生活のお荷物と考える人を嫌悪する真っ直ぐで強気な性格。学校の自警団が暴走しても迎合することは無く、面倒見がいいから、司や鍬形へのツッコミ役としての役割もある。

学校を去らんとする田能村が雲雀に告白するシーンが本作の見どころのひとつとなったのは、田能村と雲雀の性格に共感できるところがたくさんあるからこそ。

鍬形拓馬

まっすぐな性格であるがゆえに判断は白か黒かの2択のみでほぼグレーな部分が無い。こう書くと割り切った性格のようだが、平常時にヒエラルキーの最下層にいたせいか、思考はネガティブな方向を向きがち。

2024年現在のSNSにはびこる妬みや嫉みを具現化したかのような発言や行動が見られ、立場が逆転して自分が上になると、下にいる人たちを見下すところも。大智の会の信者を湖に落としておいて「アザラシ狩り」と例えるあたりに嫌悪感を感じる。

環境の変化に伴い、鍬形は本作最大のボスキャラというか人々に危害を加えて扇動する悪役へと変化していくが、まったく共感出来ないかといえばそうでも無い。
小池希美への乱暴な接し方を見る限り、他者から愛情を注がれた経験の少なさが性格を凶暴にさせているようにも思えるし、ある意味平常時に鍬形が受けた仕打ちをやり返しているようにも受け取れる。

白か黒かの明確な判断を好み、グレーゾーンを許さないというのは分かり易くはあるが、しかしそれは思考停止と同義で、価値観の違う存在との対立をよしとする考え方はやがて自分自身すらも滅ぼしかねない。

人間同志の対立が明確に表面化したのは「学校」と「大智の会」による物資の奪い合いだった。
田能村は「大智の会」に対して不干渉の立場だった。物資が枯渇するまでまだ猶予がある状況で互いの命を賭けてまで物資を奪い合う必要は無いという、白か黒かでいうとどちらでも無い曖昧なものだ。

白か黒かをはっきりさせないと気が済まないという意見は昨今のSNSでよく目にする。
なぜなら結論がはっきり出ないことは何となく気持ちが悪いことだし、深く考えたり自分と異なる意見の人と議論するよりもよりも、とっとと結論を出した方が楽だから。
また米国でトランプが一部からは熱狂的に支持されているように、民衆は苦境になるとそういうはっきりと物事を言う指導者を望みがちだ。

鍬形をトップとする自警団の恐怖で支配された学校は、独裁体制のそれに似かよっていた。
そうして大智の会の人たちを殺すのを「自分たちの生活を守るため」という言葉で正当化して、学校の人々を恐怖で支配するのは、明らかにモラルや道徳的な観念が欠如している。

司が「価値観の違いなんて、当たり前のことじゃないですか。違う宗教を信じる人同志、いちいち喧嘩していたらきりがないですよ」と言っていたがまさにそのとおりで、何でも白か黒かを即断していたら未来は無い。

尼子司

幼少よりピアニストとして父親から厳しく仕込まれ、あまり同年代の他者と接して来なかったせいかコミュニケーションにおいて言葉が直球過ぎる。
しかし、過酷な環境にあっても良識を失わないようにつとめる姿勢には好感が持てる。
人ならざる存在を神とするなら、人々を魅了するピアノを演奏をした子ども時代の司はまさしく神童で、神を降臨させる媒介者だったともいえる。
常識知らずで性格的に破綻した神童だったが、右手を怪我して神秘性を失うも、努力をする過程で人間的には成長している。

本作は凄惨でおぞましい物語ではあるが、裸の乃木妙子と一緒にいるところを見られて「生き別れた妹」と咄嗟に言ったみたり、水かきを切ったピアニストが自殺したエピソードを笑い話として紹介したりと、道化役として笑いを誘ってくることも。
一番笑えたのは、田能村と雲雀が行為を終えたところで、あろえを先に行かせておいてからの感動の再会の場面をぶち壊す、「セックス終わりましたか?」のセリフ。
終わっているからあろえを先に行かせたのだろうし、わざわざ言葉で確認してくるあたりが少し意地悪なのは、司の幼い頃の名残かも。

余談だが、本作のメインキャラともいえる司の名字が尼子で『キラ☆キラ』の主人公が鹿之介ということで、戦国時代に山陰地方で活躍した武将繋がりを連想させるが、どういう意味があったのか不明。

佐々木柚香

子どもの頃には一流のピアニストにならんとして懸命に努力を重ねてきたが、司の演奏に打ちのめされて挫折している。

登場人物の中でも突出した狂気を孕んでいるのだが、見た目が整っているから色んな男を籠絡してきた。
同時にそんな生き方に虚しさも抱えており、生きる意味を見失っているようなフシがあるが、それはコミュニケーション・スキルが高すぎて、真面目な性格故に自身の生き方を恥と考えているからこそ。

清濁を併せのめない不器用さはある意味鍬形に近いが、自らの身を犠牲にして他人のためにと、鍬形を籠絡しに行動するくだりや、死にかけの司に対して醜い心の内側を吐露するあたりには好感が持てる。その告白はあろえのつくった歪なキリスト像を前にして懺悔をしているかのようでもあった。

常に一歩引いたところから他者を俯瞰する態度だが、柚香なぜこのようになってしまったのか。

柚香は子どもの頃に真の天才である司に出会ったことで、それまでの努力の一切を否定されてまう挫折を味わった。
服を汚してしまったからと、柚香に服を提供するように上から目線で言ってくる司の性格の悪さ。しかし天才の演奏の前にはそんなことが瑣末に思えるほどの感動があった。

努力を否定された柚香に残ったのは、優れた容姿と嫉妬と持病くらいのものだった。だから生きることに前向きな希望を見出せずに、どこか投げやりな人間になってしまった。

人並み以上の容姿を生かして多くの男たちと接してきたが、その態度は自分の嫉妬心などの醜い感情を隠すためのもので、自己の醜い内面を他者に投影しながら結局は皆自分と同じように醜いということを確認していた。

だから生きる意味を見失っており、多くの人々の亡くなった災害が起きてなお、自分が生き残っていることへ違和感を抱えている。

整理すると、司は過去の自分に抗って生きることを選択し、対照的に柚香は司の才能を目のあたりにして諦めることを選択したことになり、むしろ柚香は司が自分の様に挫折することを願っていた。
だから鍬形に殺されかけている司を見て、むしろそれを期待しているかのような感情も抱いた。

ある意味、狂気のヒロインなのだが前半はそれが隠されており、終盤の混乱にまぎれて顕になっていくのが怖い。
雲雀はあろえのことを”ナカマがいない”と解釈していたが、他者に自分と同じような醜い感情を投影することで人格を保っているあたり、柚香もあろえのようにナカマが少なそうである。

True Endでは、陽射しが戻ってくることによって氷が覆い隠していた多くの死体が晒されることを言及しているが、この隠された死体は、Normal endで柚香が告白していた自身の本性の比喩とも受け取れる。

白日に晒すのを正しいのか、それとも覆い隠したままが良いのか?むしろ明確に答えを出さない司の懐の深さというか鈍感力は柚香にとっての救いになるだろうと思われる。
だって、そんなことは考えたってまともな答えなど無いものだと思うから。


ざっと主要な人物たちに対する感想を深掘りしてみると、それぞれのキャラクター設定がよく出来ているから感情移入しやすく、とても印象に残るゲームだった。
凄惨な場面も多いため、読んでいて気分の悪くなる場面もあるが、そのおかげでささやかなことに希望を感じられるというのも良い。
人間は幸せを、過去の自分か他者との比較でしか実感しづらい。辛い経験があるからこそ、ささやかなことでも幸せを実感できるのだ。


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