光明

 私がその凄まじい男と出会ったのは、小学五年生のころだった。当時私は両親と兄の家族で暮らしていた。しかし、実力至上主義であった両親は、優秀だった兄に多くの時間を割き、私と兄は食事にすらも大きく差をつけられていた。平たく言えば、私はネグレクトを受けていたのである。

 そのため、まともな食事を求めて、自宅から3㎞近く離れた子ども食堂に通うような有様であったが、治安の悪い柳都のことである。その道中誘拐され、暴行を受けることも一度や二度ではなかった。

 ある時、夕飯を食べに行くところを例のように誘拐された私は、猿轡をかまされると見慣れた柳都港に運ばれた。暗く、ボロい倉庫に放り込まれたらしい。いつもであればここで思い出すのも悍ましい行為を受ける羽目になるのだが、その時は違った。私を誘拐した男が、床に転がっている私には見向きもせずに、変声機で歪めた声で電話するのを聞き取ったところによれば、こうである。

「お前の子供は預かった。三千万用意し、今晩九時に柳都港3番倉庫まで持ってこい。そうすれば五体満足で帰してやる」

 そう、運の悪いことに身代金目的の誘拐だったのである。両親がネグレクトをしていることが周囲に知られないように、服装だけは上質なものを与えていたために、金持ちの家の子供だと思われてしまったらしい。

 暴行目的であれば、相手の気が済めば解放される。その時を待って耐え忍ぶこと。そうすれば命までは失わないのを、幼いながらも経験則で知っていた。

 しかし、身代金目当てならば話は別だ。あの両親が私の解放のために高額な金を払うとは思えない。むしろ体のいい厄介払いができたとほくそ笑んでいてもおかしくない。高窓から差し込む夕日を眺めながら、万事休す、人生もはかないものだなと早々に諦観モードに入った。

 ところが、日暮れから30分くらい経った頃だろうか、俄かに外が騒がしくなってきた。大きなバイクか何かのようなエンジン音が近づいてきて、倉庫の前で止まった。

「てめえの両親か?やけに早いじゃねえか……」と私を立たせ、バイク用のヘルメットと拳銃のようなものを携えて、誘拐犯は立ち上がると、倉庫の入口へと注意を向けた。

 すると、ゆっくりと古い鉄製のドアがきしみながら開く。現れたのは、全身黒のライダースとヘルメットで固め、白いスカーフを首元に巻いた中背の男だ。

「身代金を持ってきたのか?」

と、いつの間にかヘルメットをかぶっている中年の誘拐犯のくぐもった声が、広い倉庫にこだまする。

 その瞬間、やってきた男はまっすぐに誘拐犯に向かって駆け出した。

「野郎!サツか!?」

誘拐犯が銃を構えようとすると、もう男の鋭い蹴りがその手に炸裂し、銃は床に転がり乾いた音を立てた。体勢を立て直そうとする誘拐犯。その隙に、男の拳は誘拐犯のみぞおちを的確にえぐり、その体は宙を舞い、そして動かなくなった。

「助けに来たよ。けがはないかい?」

 二人の戦い、いや、男による鉄拳制裁を呆然と見ていた私に、男は低く、渋さすら感じさせる声色でやさしく語りかけた。

「大丈夫です。あなたはいったい?」

「私か。私は……」

そういうと、男はゆっくりとヘルメットをはずして、その素顔をあらわにした。

「柳都の子供の味方……邪屋、とでも呼んでくれ」 

中から現れた美壮年は、右目にモノクルをかけながらそう名乗った。

「君は、身代金目的で誘拐されていたんだろう?両親を呼んであげようか」

私が首を横に振ると、邪屋と名乗った男は目を丸くした。そりゃそうだ。普通の子供なら泣いて喜ぶ提案だ。

「……なるほど、家に帰りたくない事情があるんだネ。おじさんでよければ話を聴こう」

そこで私が自分の生活と今の状況を説明すると、邪屋は目に涙を浮かべて聴いていた。私からの第一印象は「胡散臭いけど、お人よし」に定まった。

「なら、君。私のところにくるかい。何、子供一人不自由ない生活を送らせられるくらいの財力はある。もっとも、これでは誘拐と変わらないといわれては返す言葉もないが……」

私は答える代わりに、ありがとうございます。とつぶやいた。

「じゃあ、話は決まりだネ!ご家族のことは心配しなくていい。私が話をつけておくからさ」

はっはっはと笑う邪屋。その姿を見ると心に常に巣食っていた不安が、少しほぐされたような気がした。

 まだ気絶していた誘拐犯を縛り上げ、邪屋の巨大な愛車に乗って二人で倉庫を出ると、いい思い出のない柳都の夜景が生まれて初めて輝いて見えた。この日から、私と邪屋との、親子関係にも似た、奇妙な共同生活が始まったのである。

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