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新年何がめでたい?ーー批判ではなく、純粋な疑問

 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。

 2024年になった。早いものだ。つい最近、大学に入学したような気がしている。そこから5年。自分が生まれてから24年が経つ。24年前はスマホなどなく、テレビも分厚い。外国人も日本に今ほどはいなかったはずだ。(正確には4月18日で24年)

 小学生の頃は、年賀状を送っていた。親の方がもらえる年賀状の枚数が多く、悔しい思いをして、いつも不満を言っていた。もっと年賀状が欲しいと思い、親戚や友達に年賀状を出し、年賀状をやり取りする関係性を維持することで、毎年一定数の年賀状を受け取っていた。その年賀状は今でも部屋にある。

 それが今となっては、年賀状を1枚も書かなくなった。もちろん、年賀状は1枚も来ない。それどころか、興味もなくなってしまった。とんでもない話だ。こうやって消えていく伝統も存在する(これについては、後述)。そして、年賀状の代わりのやり取りとしては、LINEでの「あけおめ」「ことよろ」。今年はそのやりとりすら少なかった。まあ、それはいいのだが、よくはないが、一つ思うことがある。それは「あけおめ」と省略している時点でみんな絶対に、新年のことをそこまで「おめでたい」とは思っていないということだ。

 そもそも、新年の何がおめでたいのかわからない。日本ではくそ真面目に「あけましておめでとうございます」と言い、欧米などの海外では、花火を上げ「Happy New Year」と叫んで盛り上がる。さて、新年の何に対して「おめでとう」と言っているのか?そもそも、みんな新年をおめでたいと思っているのか?謎だ。

 そこで、考えたのだが、これに関しては自分の予測でしかないが、おそらく無事に新年を迎えられてよかったということなのではないかと思う。今でこそ、平和で、死のリスクは低いが、昔は死が身近な社会だった。病気になると、死ぬ確立が高かったし、場合によっては戦争や戦に巻き込まれて死ぬ場合もあったかもしれない。そもそも、寿命も短い。そう考えると、昔は、年越しは個人単位でみると当たり前じゃなかったのかもしれない。そう考える。

 この予測が当たっているかはわからないが、現代は間違いなく、新年を祝うのは伝統の継承でしかない。一定数の年賀状ユーザーがいて、おせち作ったり買ったりする人がいて、大掃除をする人がいて、新年を祝うバラエティ番組があるから、新年という伝統が成り立っている。もし、これらが全てなくなると、きっと元旦はただの1月1日になってしまう。それでも、伝統でいいと思っている。現代人は忙しい。年賀状は仕事のやり取りだけでしかなく、パソコンで大量生産し、おせちは作れなかった場合、スーパーで買う(一人暮らしで、帰省しない人は除く)。大掃除はきっと意識の中にはあるが、忙しくて簡素になっている。年末年始のバラエティ番組に関しては、テレビのユーザーがまだいるため、成り立っている。ギリギリだが、頑張って維持している。

 考えてみれば、新年はあたり前じゃないかもしれない。2024年、1月1日の午後4時ごろ、能登の方で震度7の地震が発生した。これは年明け後のことであり、おそらく死者も阪神淡路大震災や東日本大震災の時ほどはいないが、一部地域では元旦に命の危機が訪れた。地震に三が日という概念は通用しない。いつどこで発生するかわからない。そう考えると、年越しは、生きて新しい年を迎えられたということかもしれない。そんな中で、大掃除をして、おせちを食べ、新年という伝統を大事にする。そして、衰退しつつある年賀状文化の代わりに、LINEで「あけおめ」を送ることで、新年を祝う。これが、平成・令和式の新年なのかもしれない。

 「あけおめ」は確実に、新年という伝統を守り、新しい年を迎えられることの奇跡を維持している。



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