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「人生そのもの」であり、「人のあり方そのもの」でもあるようなもの

「私には、植物に関する偏愛のようなものがある。あまりにもめんどくさいことが続いて、疲れて、生きるのがやんなって来て、その時に目の前に大きな木が生えていたりすると、そのまんま木に抱かれて、木の幹に吸い込まれて、『木になってしまいたい』と思うのである。『そうなると、生きるのが楽だろうなァ』と思ってしまうのである。『死にたい』ではなくて、『でっかい木になって生きていたら楽だろうなァ』と思うのだから、もしかしてこれは、厭世的とは逆の、すごく図々しい望みかもしれない。『こういう木に“なりたい”』と思わせる木は、みんな胴回りが私の体を吸い込めるくらいの大きさだから、もしかしたら私は、『でかい面して何百年も生きていたい』と思っているだけかもしれないのである。そういう気が、十代の頃からある。そう思ってしまう私にとって、『木』─『樹』と書くべきかもしれない─は、時として『人生そのもの』であり、『人のあり方そのもの』なのである。別に誰に教えられたわけでもなく、自然にそういう感じ方をしてしまっているのである。遠慮なく図々しくでかい面をして生きていて、生きているそのことが人から『邪魔だ』とも思われず、普段は『生きている』とも思われないのに、しかし、植物は植物なりに紛れもなく生きていて、よく考えてみれば、こんなにしぶとく図々しい生き方もないくらいの大木は、私にとって、いとも自然に『理想のあり方』なのである。もちろんそう思っていたって、現実の私は『じっとしてるのなんかやだ』と思う、一向に植物くさくない人間でもあるのだけれど。」

橋本治「歴史のようなもの」
『ひらがな日本美術史5』


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