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さよーならまたいつか!

いつまでもnoteに短文を書いているだけではなくて、目的と方向性を持った、ある程度長さと根拠のある論文を書くために自分を仕向けているところなので、あまり更新はできていません。たぶんこれからしばらくは。

「帰って来た橋本治展」で『はじめての橋本治論』を書かれた千木良悠子さんにお会いして貴重なものを譲っていただいた(また、それを橋本さんのご遺族も快諾くださった)ことに対して、結局なんのお礼もできずに終わってしまった。今流通していないものに対するお礼って、返すものによっていただいたものに価値をつける行為のような気がして、考えれば考えるほど何がふさわしいものかわからなくなってしまった。そもそも私に声をかけていただいたことに圧倒されて、「身に余る光栄」って慣用句をはじめて実感して震えてた(ほんとに手が震えた)。時間はかかっても、研究したことを成果として形にすることが唯一できることだと思って、だからそっちの方向に動くことにした。鶴澤寛也さんに親切にしていただいたときもそう思った。それは忘れない。時間はかかりすぎてしまっているけれど、絶対に書いて恩を返すんだって思ってる。
ここで何度も書いているように、自分で書くとしたらまずはじめの題材は『人工島戦記』がいい。未完であることも、長すぎて通読した人が果たして何人いるのか疑問であることも研究には不向きであるけれど、だからこそ自分がやりたいし、橋本治が仕事も対価も度外視して生涯手を加え続けた作品にはそれだけの価値がある。
最近は『人工島』を読み返したり図書館で資料をコピーしたりそれを読み込んだりまとめたりと地味ィーな作業を仕事の合間にしている。

その仕事も、今が一年で最大の繁忙期。

まさか仕事の合間に本ばっかり読んでいるわけでもなくて、あれよあれよという間に始まった不妊治療で病院にほぼ毎週通ったり、がん検診に行ったり、映画を観たりF1を観戦したりしている。
本さえあれば私がやりたいことはどこでもできるのは便利で、通勤や通院、毎週の義実家への通いも、ちょっとした隙間を縫ってする読書によって支えられている。日常生活のベースに橋本治が通奏低音のように流れて「寝ても覚めても橋本治」が実現している。

通院のときに読んでいた『橋本治が大辞林を使う』では「モノローグとダイアローグ」が中盤の重要な要素だった。辞書(大辞林)についての本がなぜ「モノローグとダイアローグ」になるのか?それはこの本が「辞書よりも前に、生きた言葉がある」から始まることからわかるように、「言葉とはなんだろう」ということを延々と書いているからだ。『橋本治が大辞林を使う』というタイトルから想像するような、他の辞書(例えば広辞苑)よりも大辞林が優れている点とか、辞書にまつわる“ゆるエッセイ”の本ではない。もちろん辞書を“正しい言葉”の権威にはしないし、それに寄りかかってもいない。広辞苑ベッタリの校正者との攻防はタイトルから想像できるエッセイっぽいエピソードではあるが。
言葉とは自分の中の世界を構築するものであり、同時に自分の外の世界と繋がるためのものである。話し言葉を構築するところから始まって、書き言葉(辞書の言葉)によって他者と繋がる。でも書き言葉が“正しい”という考え方は、生きた話し言葉から発生する言葉本来の性質とは相容れないし、不自由すぎる。「モノローグだけがあってダイアローグがない人間」「ダイアローグだけがあってモノローグがない人間」「モノローグとダイアローグの区別のない人間」が増えていく世の中に橋本治はずっと疑問を投げかけていたし、モノローグが他者との関係の中で表沙汰になって挫折して成長していくことが『桃尻娘』全6部に仕掛けられたトリックでもあった。

この動画で島田雅彦さんが「全共闘の人は完全にモノローグの世界でしょ」と言っている。全共闘がモノローグだとすれば『人工島』でテツオたちがやろうとしているデモはダイアローグになっていたはずだと想像する。

『橋本治が大辞林を使う』を読みながら、自分がまだモノローグに寄りすぎていることに気づいてショックだった。私は放っておけば「モノローグだけがあってダイアローグがない人間」になる。橋本治の作品を「モノローグとダイアローグ」の視点で読み解くだけではなくて、私の研究自体がモノローグからダイアローグに開かれていかないと意味がないし、そのためには自分が変わらなければならない。私にはまだそこに壁があって、自分を変えるために仕事は必要だと感じている。私にとっては不妊治療も家族との向き合いも自分をモノローグ人間から脱出させるための訓練の場だ。
こんないちいち自分と向き合ってたら研究なんて全然進まないんですけど。しかも橋本治の文章って独特に難解だったりするから、一文に引っかかってその意味を取るのにすごく時間がかかることがある。例えばこんな文章。

「『実学か虚学か』を判断する基準は、『社会の役に立つかどうか』ではなく、まず人の心に納得を呼び起こすかどうかで、『社会の役に立つかどうか』はその次です。今の学問は高度に発達してしまって、納得以前に頭に入れることさえむずかしくなっています。そういうものが『虚』なのか『実』なのかを判断するのはむずかしいことですが、それを判断する簡単な方法があります。『これはなんの役に立つのですか?』を尋ねた時に、ちゃんと答えてくれるのが『実』で、答えてくれないのが『虚』です。答えてくれても、その答え方が嘘臭かったら『虚』ですが、『なんの役に立つのですか?』と尋ねて、『なんの役にも立たないんですよ』という答が返って来たら、それは『実』です。『今はなんの役にも立たないけれど、将来はなにかの役に立つかもしれない』と思っているから、あっさりと『なんの役にも立ちません』と言えてしまうのです。自分の学問を『虚』にしてしまっている人は、『なんの役に立つのですか?』と尋ねても答えてくれません。『お前なんかに関係ないことだ』と思っているからですが、従事する人間にとってだけ意味があるようなものは、『実学』なんかじゃありません。」

橋本治『精読学問のすすめ』p.72

難しい言葉は何一つ使われてないのに、このケムに巻かれたような難しさはなんだろうとか…。『人工島』で人工島建設に反対するサークルを立ち上げたテツオたちがサークル名を「人工島同好会」にした理由のややこしさみたいなことが至る所にある。「モノローグとダイアローグ」の話だって、私の書いたことだけ読むと分かりづらいかもしれませんが話し言葉とモノローグはイコールではないんですよね。

『虹のヲルゴオル』って本をAmazonで見ると、本の概要に「“女”であることを恐れないっていうのは強い」って言葉が出てくるんだけど、これは実際本の中にある言葉なんですね。でもその言葉をそのまま受け取るわけにもいかないっていうのは、こんな言葉もまたあるから。

「男と女というのは、実は生物学的な違いの他に、もう一つその置かれ方の違いによって現れる“社会的な違い”というものもある。自分の限界なんていうものを平気で受け入れてしまったら、その瞬間、性別のいかんを問わず、その人間は“女”なんだ。『自分の限界なんか認めるもんか!』と思ったら、その瞬間からその人間は、性別のいかんを問わずに“男”。そういうダイナミックな生き物が“人間”という社会的な動物なのだということを忘れると、とんでもなくつまんないことになる。」

橋本治『虹のヲルゴオル』(単行本p.283)

このさりげない一文を見逃したって十分に素晴らしい俳優論ではあるが、この前提に目が止まらないと、この本や橋本治が書くことは「古い」と判断されて終わりだろう(題材になっている映画や俳優の古さは別として)。ただ最近『マリリン・トールド・ミー』(山内マリコ)が話題になっていたところを見ると『虹のヲルゴオル』でのマリリン・モンロー論も全然古くないと思う。橋本治はマリリンを「エロチックなカバーをつけられちゃってる若草物語」と書いてます。

私の橋本治研究は、ただ橋本治の文章が好きだから始まったわけではなかった。順番で言えば、最初の動機は仕事とプライベートだけで人生が終わってしまうのが嫌で、というか「まずいな」と思っていて、三本目の足を見つけたかった。仕事は経済的な支柱、プライベートは居場所としての支柱、三本目として求めていたのは、精神的な支柱になるものだった。努力せずとも続けられるのが唯一読書で、その中でも橋本治は際立っていた。橋本治が亡くなって、心に残っている橋本治の本を読み直し始めたのが今に繋がる。橋本治に目標を絞るのにも二年くらいかかっているし、そもそも橋本治に出会うまでにも長い読書歴があった。橋本治で論文を書こうと決めてから『人工島』に絞るのにも年単位で時間はかかっている。それも『人工島』刊行という出版社の英断による快挙があったからで、当時の私には予測不能だった。コロナ禍を挟んでも変わらなかったのは「橋本治を読みたい」という私の気持ちで、これだけはおそらく何があっても変わらないだろう。無類の面白さだけじゃない奥深さが橋本治の文章にはある。それを私の中だけにとどめておくのはもったいない。

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