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「花も実もある」が、実には美もある

「5つの連作小説を収める『桃尻娘』の各作品のタイトルには、全部果物の名前がかぶせられている。今となっちゃ『フルーティな感覚』とやらで別に不思議でもなんでもないが、これを書いた20年前ばかりには、『美しいものとは花であり、果物とは食うものである』というような思い込みがあった。『花も実もある』という言葉があるが、この場合の『花』は『美しいが実質のないもの』で、『実』は『実質だけで美しさのないもの』である。だからこそ、『花も実も』の両立がある。果物は『美しくない』のである。私は、『そういう決めつけがやだ』と思う人間で、『果物だって美しい』と思う。美しいはずのものが『美しくない』と思われている風潮を変だと思い、その風潮をそっくりそのまま前提にしてしまったら、『果物のあらわす美』はきっとへんてこりんなものになるだろうと思う私は、それで『果物を使ったへんてこりんなタイトル』を考えたのである。少女マンガの評論集である『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』のタイトルもその延長線上にあって、『世間の人が果物をあまり美しいものと思わないのは、果物が食えるものであって、食えるものは、どうやら“美しいもの”のカテゴリーに入らない。その理由は、きっと食うということが性欲と並ぶ二大欲望の食欲に直結するからであろう』と考えた。20年ほど前の私は、世間の人間がこんなにも食い物のことしか考えなくなる未来が来るなどとは思ってもみなかったのだが、『“食える”という実質を備えたものは、その実質ゆえに美しい』という立場だってあるとその昔に思って、『“美しい”に最も直結しにくい食い物はなんだ?』と考えた。そこで『キンピラゴボウだ』という結論に達したのである。プルーストとキンピラゴボウをくっつけようなどという発想は大胆極まりないものではあるが、私にとって『大胆』とは『うれしい』の別名なので、いいじゃないかと思う。『マルセル・プルーストは《花咲く乙女たちのかげに》だが、“陰”という淫靡ではなくて、もうちょっと違うなにか、“陰”の近くの近所で‥‥』と思って、『キン、キン、キンジョ─ああ、キンピラゴボウか』ということになったのである。『プルーストは縁語でキンピラゴボウになる』と言って、人はきっと本当にはしないだろうが、深く日本人である私の言語感覚はそういうものである。『実質を備えたものは、その実質ゆえに美しい』という視点だけならそうもならなかろうが、そこに『この言語感覚もまた日本人本来のものである』という強引がくっつくと、タイトルはとってもへんてこりんになる。『なってもかまわない、それが事実だ』の強引さが私の身上である。」

橋本治「色っぽいもの」
(『ひらがな日本美術史3』)


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