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8月を前に戦争について考える

 終戦からもうすぐ80年が経とうとしている。日本がかつて占領していた国々からの我が国に対する見方には、今もって厳しいものがある。特に韓国の徴用工問題や慰安婦問題については、いまだに両国間に火種がくすぶっている状況だ。

 私は今から約30年ほど前、カナダに語学留学した。その時に日本の旧占領国からの留学生たちが、日本や日本人に対して抱いている気持ちに否が応でも接さざるをえなかった。
 クラスの約半分は韓国からの留学生で、私自身が両国の歴史についてあまりにも配慮し過ぎたせいかもしれないが、なかなか真にお互いを理解したり、交流したりできなかったような気がする。それでも普通に授業を一緒に受け、時間が経つにつれ、授業以外にも食事や買い物などを一緒にする友達もできた。

 そんな留学生活も終わりに差し掛かったころ、私にとって忘れられない事件が起きた。
 バンクーバーのバス停で並んでいた時に、若い中国人の女性が私に声をかけてきたのである。バスの行き先を尋ねてくるのかと思った私に、彼女はまず私が日本人であるのかどうかを尋ねてきた。
 そうだと答えると、彼女は「私は中国人。あなたの国が私の国を侵略し、ひどいことをしたのをあなたは知っている?」と聞いたのだ。
 私は恥ずかしいような、それでいて日本が過去に行った事について、なぜ私がなじられなければならないのかというやるせない気持ちもあり、結局何も言うことができず、その場を立ち去ることしかできなかった。
 この経験から、他国を侵略したり、また占領することは、何十年、おそらく何百年経とうとも和解することのない恨みが残るのだということを痛感した。

 戦争によって生まれた傷は、時間によって解決されることはないと思う。また、未だに日本は公式に旧占領国に対して謝罪をすることなく、ましてやそのことについて議論したり、教科書に載せたりする事さえ社会的にタブーとなっている現況に、韓国や中国、また太平洋戦争の戦場ともなった東南アジアの人々は、どのような心持ちでいるのだろうと思うのである。

 夏になると日本では、広島と長崎への原爆投下や終戦記念日もあり、戦争について考える機会が多い。新聞やテレビでもこぞって戦争や平和についての特集が組まれる。しかしその内容は、敗戦国として多くの人命が奪われ、被爆国として市民が甚大な被害を受けたという被害者目線のものが圧倒的である。そこには韓国や中国、東南アジアで旧日本軍がどんなことをしたのかについての視点は、欠落していると言わざるをえない。

 最近読んだ佐藤智恵著「ハーバード日本史教室」(中公新書ラクレ)の中で、ハーバード大学で日本史を教えておられるアンドルー・ゴードン教授が、今後の日本のあり方について、日本は品格ある国家を目指すべきだと述べている。
「国民が『我が国は特別でも完璧でもなく、我が国にも暗い歴史はあるのだ』と認めた上で、自国を誇りに思う…これこそ品格ある国家の姿です。…戦争で多くの日本人が犠牲となり、国は壊滅状態となりました。しかしながら、戦争の被害を受けたのは日本だけではありません。現代の日本は、日本国民だけではなく、隣国の国民の犠牲のもとに成り立っているのです。」と、説明している。
 日本の未来を考えると、まさにゴードン教授が述べた通り、正負を含め過去の歴史にしっかりと向き合う必要があるように思う。そうしなければ、これからの日本を担っていく世代は、周辺諸国からの理解を得ることもできず、また自身の国に対するある種の自信のなさから、非常に不安定で暗い未来しか描けないことだろう。

 現在の日本の歴史教育には、他国の視点や通史の観点が欠如していると言わざるをえない。これでは本当の意味での日本を捉える事は到底できないであろう。
 太平洋戦争に関して多くの著作を残された作家の半藤一利氏は、旧軍人に戦地での話などを聞いた際に、必ずしも彼らが真実を語っておらず、自身の都合のいいように話をしている傾向もあるため、完全に信じてしまってはいけないと感じたそうだ。
 戦争を体験した日本人が、人口の約16%程度になってしまった中で、また戦争を知らない世代が今後圧倒的になる中で、どのように戦争について語り継ぐべきか。難題のように見えて実は、新たな視点で、また何のバイアスや忖度なく、真っ向から戦争を見つめ直す好機であると私は考えるのである。
 旧植民地、慰安婦、女性、傷病兵士、その家族など、特に庶民の声なき声を丹念に集めることで、新しい歴史観、また日本観、ひいては我々の今後のあるべき姿が見えてくるような気がする。