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すべてのチャンスを掴み損ね、司法試験にも落ち、人生に詰んだわたしの話。

わたしは誰も支えることができないのに、誰かに支えられないと生きていけない。そんな価値のない人間です。

夢を見て、引き際を誤り、積み上げてきたものを台無しにした。

つまらなく、取り留めもない、哀れなアラサーの自分語りです。



わたしと家族について
わたしは在来線で東京まで2時間ぐらいの、主な産業が農業の町に生まれました。母は専業主婦、父は建築の仕事をしていました。兄弟は2歳上の兄がいました。

両親は(祖父母も)、幼い頃から兄を特別可愛がりました。何をするにも兄優先。誕生日には兄はケーキやラジコンなどを買ってもらっていたのに、私は何もありません。お年玉も、クリスマスも。しかし、兄を羨んだ記憶はありません。あまりにも平然と行われてきたことなので妹とはそういうものだと思っていたからです。

なぜ兄だけが可愛がられたのかはわかりません。今思えば、父母両方の祖母は何かにつけて「長男は〜」という人だったので、両親も長男主義になったのかもしれません。とにかくそれが普通だったのです。

兄とは一緒に遊んだ記憶がありません。兄は多分私のことを邪魔だと思っていたと思います。部屋の四隅の角に溜まった埃のような存在だったわたしをどうしてそのように思っていたのか分かりません。

しかし後述の通り、私はこの家族のもとで育って不幸だと思ったことはただの一度もありません。ご飯は一応作ってもらえたし、暴力を振るわれたこともありません。自分で稼いだバイトの給与を取られたこともないし、家から閉め出されたこともないのです。世の中にそういう家庭があることを私はよく知っていました。

ただ温度のない無味無臭な家族だった、とだけは言えると思います。


子どものころ

幼稚園から帰ると、私は住んでいたアパートの近くの公園で遊びました。2DKの狭いアパートのうちには私のおもちゃは一つもありませんでしたし、勝手にテレビをつけると母は苛立って「うるさい。」というのです。

なので公園の砂場でいくつも小さな砂の山を作って時間を潰しました。しばらくすると、小学生がじゃれあいながら帰ってくるので、その中からヨウコちゃんを探しました。

ヨウコちゃんは多分うちの近くに住んでいる子で、学年は知りませんでした。いつも小学生の群れからホンのちょっとだけ離れて歩いて帰ってきます。注意深く見なければ、群の一員のように見えるので、私はいつも目を凝らして観察していました。

ヨウコちゃんを見つけると私は大きな声で名前を呼びました。すると群れは一斉にヨウコちゃんを振り返るのですが、すぐにまた前を向いて歩き出します。置いていかれたヨウコちゃんは力なく笑顔を浮かべながら私の方に歩いてきてくれます。そしていつも「夕焼け小焼け」が聞こえるまで一緒に公園で遊んでくれるのです。

私が年長にあがると、ヨウコちゃんは知らない女の子と二人で帰ってくるようになりました。その頃からヨウコちゃん、と呼んでもヨウコちゃんは私に手を振るだけで公園に入って来てくれなくなりました。

そのうち手を振ってもくれなくなりました。

私は砂場で山作りに飽きると、何個も穴を掘りました。

幼稚園児の頃の記憶はそれぐらいしかありません。


小学校

小学校に上がる時、私はピカピカのランドセルを買ってもらいました。私の服や靴は、たいてい母が誰かからもらってくるお下がりだったので、新品のものを買ってもらえたことが嬉しくて、入学式の前にもかかわらず一日中ランドセルを背負いました。寝る時も布団の横に置いているぐらいでした。

1年生の最初のクラスには、幼稚園で一緒だったミナちゃんがいました。ミナちゃんはいつも新しい服を着ていて、髪型もオシャレだったのですぐにクラスの人気者になりました。

みんなすぐに席が近い子と仲良くなりました。しかし私は一番前の席で両隣は男の子でしたし、すぐ後ろの席の女の子はそのまた後ろの子と大の仲良しになったので、「親友」を作りそびれてしまいました。

ミナちゃんのグループに「入れて」と言ってみたのですが「いま4人そろってるから」と仲間に入れてもらえませんでした。

休み時間に一緒に遊ぶ友達ができなかったので、私は図書室に行くようになりました。両親から誕生日やクリスマスにもらった絵本を何回も何回も読んでいたので、私は「本が読める」子供だったし、どちらかというと本を読むのは好きでした。ですが、できれば本を読むより、友達と一緒に縄跳びなどをして遊びたかったと思っていたはずです。

勉強は嫌いではありませんでした。授業はしっかり聞いていましたし宿題も真面目に取り組みました。授業中いつも手を上げていました。難しい問題が解けた時、先生が「よくできました」と言ってくれるのが嬉しかったです。先生ぐらいしか私を褒める人はいなかったので、授業中はいつも天井に届くのではないかと思うぐらい高く手をあげました。

学校のテストは良くできたと記憶しています。通知表には3段階の3ばかりでした。褒められることを期待しながら母に見せましたが、母は黙って確認印を押すとろくに中身も見ずに私に通知表突き返しました。

その時、母もパートに出始めたので疲れていたのでしょう。

私は孤独に学年を重ねて行きました。クラス替えがあるたびにわたしは新しく友達を作ろうと話しかけたりしました。しかし、最初は話してくれた子もすぐに離れていきました。

みんなが好きなアイドルや漫画雑誌の話に全くついていけなかったことが理由だと当時思っていましたが、他にも理由があると思います。

とはいえ、誰にも意地悪されることも、悪口を言われることもありませんでした。今思えば誰にも相手にされていなかったのです。


中学校

中学校の話は省略したいと思います。

小学校の記憶はあるのに、何故か中学校のことはあまり思い出せません。とても不思議なものです。

ただ、修学旅行の班が私の知らない間に決まっていて、お互い全く話したことのない子たちと一緒に京都の町をまわることになったことは覚えています。それでも初めての旅行だったので、私の心は未だかつてないほど浮ついていたと思います。

夕陽に照らされてキラキラと輝く金閣寺は、紅白歌合戦の小林幸子さんの衣装を見ているような夢のような光景でした。


高校

うちから自転車で30分ぐらいにある県立高校に入学しました。翌年に兄が大学受験を控えており、両親は予備校や学費のことを毎晩のように話し合っていたので、私は公立に通うしかないと理解していました。そうでなければ私は高校に行かせてもらえなかったと思います。

そうして地元の高校に進学することに決めました。三者面談で担任の先生はもっとレベルの高い高校を母に勧めていましたが、母は「本人に任せてます」としか言いませんでした。私は、電車賃のかからない地元の高校で良いと言いました。

高校に入って私はオシャレというものに興味を持ちました。うちの高校は校則が緩かったのでみんな各々メイクやヘアを楽しんでおり、わたしもやってみたいと思ったのです。その頃、すでにルーズソックスを履いている子は見かけなくなっていましたが、髪の毛を染めてくるくるに巻いたり、長い付け睫と銀色のキラキラのアイシャドウで目を大きく見せるメイクはまだ流行っていました。


オシャレするためにはお金が必要でしたので駅前のファストフード店でアルバイトを始めました。

5時間目までに授業が終わる日の放課後にシフトを入れて、終礼を終えたら走ってバイト先に向かいました。時給は700円台で週に4日(うち1日は土曜日)、15時間ぐらい働きました。初めてする接客の仕事はとても楽しかったです。当たり前ですが、お客さんのほうからわたしに会いに来てくれるんです。普通の生活で誰かがわたしに話しかけたり、訪ねてくるなんてまずありえません。数十秒間のやりとりの中に「つながり」を感じることができたのが嬉しかったのです。この「つながり」がある時間、わたしは相手の中に存在できたのですから。わたしは、おしゃれをするという当初の目的をすっかり忘れて、ただただアルバイトを楽しみました。

高校2年生になると大学受験に向けて勉強する生徒が増えてきました。そうしてわたしも進路を決めなくてはいけない歳であることに気づかされました。わたしの高校では大学に行く子と、短大・専門学校に行く又は就職する子が半分ずつぐらいでした。

その頃、兄がちょうど大学に入学したところで母も2駅先にあるコールセンターでフルタイムで働いていました。お金のことで両親は度々喧嘩をしていました。わたしは進学はできないな、と悟りました。

しかし、学費を調べてみると、短期大学か国公立大学であればいけそうだなと思いました。バイドの給与にはほとんど手をつけていなかったので1年間で結構な貯金ができていたのです。試しに高校2年生の4月から7月まではバイトを週20時間に増やしました。すると夏休みまでに、初年度にかかる費用を貯めることができました。

両親には自分のお金で進学したいと言いました。何を言われたかは覚えていません。何も言われなかったような気もします。

そうして高校2年生の秋頃から受験勉強というものを始めました。第一志望は、(下宿費はとてもじゃないが無理だったので)家から通える国立大学にしました。国立大学とはいってもかなり下の方のランクだったので、3年生の春の模試ですでに合格圏内でした。

油断していたら落ちてしまうと思ったのでバイトを週に2日に減らして、学校の授業がある時間以外は図書館で赤本を繰り返し解きました。


大学

入試は難なく合格することができました。掲示板に自分の番号を見つけたときは、嬉しいというよりはほっとした気持ちでした。

大学に入ってからは学費のために引き続き毎日アルバイトに励みました。すでに3年勤めていたので時給は100円も上がっていました。バイトの中ではすでに古株です。

全ての授業に出席し、漏れなく課題をこなしつつ、アルバイトをすることは案外大変でした。毎日へとへとになって帰宅しました。金曜日の夜は泥のように眠りました。

大学はとても楽しかったです。自由に学べることがこんなに楽しいだなんて全く知りませんでした。


ヨシムラさん

アルバイト先に、ヨシムラさんという先輩がいました。わたしより1年早く入った大学生でした。ヨシムラさんとはシフトがかぶることが多く、多分店長にわたしの教育係を頼まれていたのだと思います。

ヨシムラさんは背が高くて儚い印象を受けました。しかし声や笑顔が優しいので、近所の年配のお客さまにとても人気でした。

わたしが大学に入学するとヨシムラさんは就職活動でなかなかアルバイトに顔を出さなくなりました。

秋にヨシムラさんは戻ってきました。就活で苦戦したようですが無事に就職が決まったようでした。

今年中にアルバイトを辞めるとも言っていました。

ヨシムラさんの就職が決まりバイトを辞めるということで送迎会をしたーーー12月11日。偶然帰りに同じ方面で二人きりになったヨシムラさんに「良かったら付き合ってほしい」と言われました。

私はその言葉が理解できず、本当にぽかんとした顔でヨシムラさんを見たと思います。わたしはヨシムラさんはバイトの先輩としては憧れていましたが、男性としては「そこにいる人」としか認識していなかったす、彼もそうだと思っていました。

そもそもヨシムラさんがわたしに抱いていると言う感情をわたしは一切信じられませんでした。

「試しにでいいから。もしダメだったら終わりにすればいいんだし。」

何を試すのか、どうなったらダメなのか、終わりにするとはどういうことなのか。それを知りたいとも思えて「はい」と言いました。

そうして、20年間近く友達という友達もいなかったわたしに恋人ができました。

付き合って2、3ヶ月はとてもギクシャクした時間を過ごしていました。私は彼とどう接していいかわからなかったのです。わたしは「客と店員」以外の人間の関係性をほとんど知りませんでした。

ヨシムラさんとは、白と黒の斑猫のいるオムライスが美味しいカフェでよく会って話をしました。それからヨシムラさんのことをたくさん聞きました。サイクリングが好きで、大学では自転車サークルに入っていたこと。いつかツール・ド・フランスを見に行きたいこと。中高は陸上部だったけど伸びなかったこと。高校生の時に好き合っていた彼女がいたけれど、大学では出会いがなかったこと(彼は機械工学部だった)。

「ちさこのことも教えて」とヨシムラさんは言いました。

わたしはとても困りました。自分を形容する言葉を一つも知らないのです。今までこれといって何もしていないのです。ただ、そこにいただけ。

ヨシムラさんは言葉に詰まる私をただニコニコと見守っていました。


進路

わたしは、教育学部だったので教職課程に進もうか就職しようか迷いました。どちらもしっくりこないような気がしていました。

そのころ私の父方の祖父が亡くなりました。その相続権を巡って凄まじい相続争いが怒ったようで、相続権のない母が毎晩電話越しに親戚に怒鳴っているのを自分の部屋から聞いていました。

このことがきっかけで私は弁護士になりたいと思うようになりました。難易度、ロースクールの費用、合格率、カリキュラムなど何日も何日も調べました。とあるサイトには10000時間の勉強が必要だと書かれていました。

今のわたしだったら、この時の私に「あなたには無理だ」と言ったと思います。

しかしそれは無理でした。ホンワカパッパになってしまっていた当時の私は自身を止めることなどできませんでした。

頼みの綱であったヨシムラさんは「へー頑張って。」と背中を押してくれました。とはいえ、ヨシムラさんは悪くありません。わたしは手を振ってくれるヨシムラさんに笑顔で挨拶して自分で勝手に崖から飛び降りたのです。

とにかく、今まで抱いたことのないほどの暴走する熱量を制御してくれる人間がわたしの周りには誰もいませんでした。

私も誰かの役に立ちたい。

褒められたい。

感謝される人間になりたい。

何者かになりたい。

そう強く強く思ってしまったのです。



ロースクール

私は真面目に授業を受けていたため、大学の成績はほとんどS評価でしたし、適正試験との相性が良かったこともあり、無事国公立のロースクールの未修者コースに合格しました。

あまり詳しく書いていませんでしたが、わたしは大学時代も本当に授業以外はアルバイトしかしていませんでした。4年間扶養控除ギリギリまで稼ぎました。

なので大学の学費は全て賄えていましたし、ロースクールの分についても奨学金を利用すれば、なんとか返済できるぐらいの貯金はありました。ロースクール入試と同時に行っていた就職活動をやめ、進学することにしました。


ロースクール時代

ロースクールは私の想像より1万倍はシビアでした。多すぎる課題、範囲が膨大な試験....。

大量の基本書、判例書、印刷物を背負い毎朝学校開くと同時に登校し、21時すぎまで自習室で勉強しました。それでも次の日の授業の予習をするのが精一杯で復習には手が回りませんでした。当然、土日は朝から15時自習室で過ごし、17時から22時までアルバイトしました。

ロースクールではマイクを回して教授と問答形式で授業が進むため、予習をしていなければ恥をかきますし、その授業全く理解できず無駄になってしまいます。他の学生の時間をも無駄にしてしまうため授業の1分前まで基本書や判例を読み込んでいました。

1年生の頃は気力で満ち溢れていましたが、2年生になると身体的疲労が極限に達し、精神まで病むようになりました。授業でうまく発言できない悔しさ、留年に対するプレッシャー(学年で2割ほど留年する)、司法試験自体の対策に手を回せないことへの焦りがありました。2年生からは法学部出身者が多い既習コースと合流するためさらに授業の難易度が高くなります。週2のアルバイトも辞めて勉強に集中しました。

その頃でもヨシムラさんとはうまくいっていました。毎週金曜日の夜、ロースクールの帰りにヨシムラさんのアパートに行きました。

一緒に出来合いのご飯を食べて、少しお酒を飲みながら会話し、そして寝ます。翌朝、ヨシムラさんが起きる前にわたしはロースクールに向かいます。

ヨシムラさんはあまり連絡がまめな方ではなく、1週間音信不通でもケロリとしているタイプでした。また営業職だったヨシムラさんは毎日ヘトヘトになっており、大体土日は家で寝ているかゲームをしているかだったので、むしろ彼にとっては適度な距離感だったと思います。

司法試験

簡潔に説明すると、わたしは受け控えなどをしながら猛勉強を続けましたが、卒業から5年。ついに司法試験に合格することはできませんでした。

2年前の合格発表の日、わたしは人混みの中、自分の番号がないことを確認して静かに泣きました。

人生で初めて悲しみを理由に泣きました。

かすれる声でヨシムラさんにわたしは司法試験に受からなかったこと、今後もう受けられないことを告げました。

「学費の返済あるの?」

「ないです。」

「そっか。じゃあいいじゃん。」

じゃあ、いいじゃん。


その後

7年ぶりに就職活動を始めました。30超えてからの就活は困難を極めました。中途採用なのに職歴が全く無いのです。

大手企業から零細企業まで、エントリーシートを30枚書いても1枚も通りませんでした。

わたしは以前アルバイトしていたファストフード店に連絡しました。就職が決まるまで自分の食費ぐらいは稼がないと、と思ったのです。

もう店長は変わっていて知っているバイトの子もいませんでした。

面談に行くと、新しい若い店長はわたしをジロジロ見て「ここ5年何してたの?」と聞きました。「司法試験の勉強を、」というと、話を遮って「ふうん」と言いました。

結局8年勤めていたアルバイト先にも断られてしまいました。人が足りているとのことでした。日雇いのバイトをすることにしました。

「この家引き払うから。」

ずいぶん久しぶりに母の声を聞きました。そしてそれだけ告げると、とたんに興味を失ったように手元のスマホをに視線を戻しました。

わたしはついに、家を出なくてはいけなったということです。両親がどこに越したかは知りません。

貯金は26万円。定職無し。

わたしは縋る思いでヨシムラさんに一緒に住んでほしいと頼みました。

ヨシムラさんは「いいよ。」と言いました。

荷物をまとめてヨシムラさんの家に来た日の夜、わたしはしんしんと泣きました。

ヨシムラさんは「不安なの?大丈夫だよ。ちいちゃんは家にいれば良いじゃん。働きたかったら、駅前のパン屋さんはどう?パン好きでしょ?」と言いました。
唯一わたしのそばにいてくれるヨシムラさんに、わたしは一生理解されることはないんだいうことを悟りました。

彼はハナからわたしに興味などないのです。


終わり

たまに人生を振り返るのです。

わたしは決して裕福な家庭に生まれたわけではありません。だけれど、大学院まで出ることができました。

もし、大学の学費出してもらえない時点で就職しようと思えていたなら。

もし、大学卒業し普通に就職していたら。

もし、ロースクール卒業して普通に就職ていたら。

もし、1年目、2年目に司法試験に落ちた時に就職を決めてれば。

わたしには普通の人になれるルートがいくつも用意されていました。一つ道を逸れてもその後にまた一つルートを用意してもらえていたのです。

しかしわたしは最後まで諦めない道を選択しました。

自分に司法試験に合格する力が無いにもかかわらずそれを疑わず、努力は必ず報われるという、成功者のみが語る言葉を飲み込んでしまったのです。

そうしてわたしは、30過ぎにして人生に「詰み」ました。就活2年目の今、まだ内定がありません。

どうかわたしを笑ってください。見下してください。

無視さえされなければ、どんな中傷でも構わないです。

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