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「ありがとう」を求めると変わってしまう本質

仕事で、あるボランティア部に所属する学生を取材した。
そのときにきいたお話に、はっとしたことがあった。

「ありがとうって言ってもらえたとき、やりがいを感じますし、この言葉が欲しくてボランティア活動をしています。でもこれって自己中で本来の目的から外れていますよね」

世の中に人から「ありがとう」を言われることを求めて仕事をしている人は多いのではないだろうか。

「ありがとう」と言われて嬉しくない人はいないだろうし、
「ありがとう」と言われて「自分のやってきたことは間違いではなかった」と実感する人もいるだろう。

しかし、どんな仕事でもボランティア活動でも日々の生活の中でも、他人に「ありがとう」を求めることが最終目標になると、少し本来の目的から逸れる気がする。


学生時代、部活動のスタッフをやっていた頃、選手に「ありがとう」と言われることが嬉しく、やりがいになっていた時期があった。
でも、選手は試合に勝つためにトレーニングをし、戦略を遂行し、練習を繰り返す。
それと同様に、スタッフは選手やチームの先頭に立って先回りの行動で勝利へと導く。
やることは違えど、「勝つ」という目標のために行っていることに違いはない。

極論、「練習してくれてありがとう」と選手に伝えないのなら、スタッフが直接「ありがとう」と言われなくてもなんら問題ではない。

スタッフは感謝されるためだけにチームにいるのではない。
勝利に導くために、スタッフにしか出来ないことをやるのみである。自分たちの存在価値は「ありがとう」という言葉で評価されるのではなく、自分たちで証明するほかない。


学生の頃の気持ちが蘇ってきた。
最近のわたしは、また他者から「ありがとう」と言われることを待っていた気がする。

やるべきことをやり、他者へはもちろん、自分のためにも行動する。そして、最終的な結果として、「ありがとう」がもらえたら、それはかなり幸せなことだ。

それくらいで思っていたほうが、自己肯定感が上がるのではないだろうか。気が楽に過ごせるのではないだろうか。

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