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弱き者、ただ生きる。


生産性が低い、社会貢献しない者に向けられる、存在価値とは?の視線

性別違和のある我が子に、
生産性がないのはいけないことなの?と言われたら、半年前の私は正面から向き合えただろうか。

8年前、この世に生まれてきた娘は
クリクリした大きな瞳と愛らしい顔つきをしていた。

今ではどこへ行っても、
そこのお兄ちゃんと呼ばれ、振り返る。

赤ちゃんはよく寝る。美味しそうに食べる。
たくさん遊ぶ。遊び疲れたら、コテッと寝る。

そんなの幻想だ。
寝ない、食べない、人と遊ばない
娘の育児は、ナイナイナイだらけだった。

その強烈なこだわりは、
障がいと名をつけられたけども、

見方変えれば、
他を寄せ付けないほどの魅力を備え付けて、
私を毎日笑わせてくれて感嘆させてくれる。

わぁ凄いね〜!と穏やかに反応してみても、
その驚きの後に、ヤバッ!スゴッ!!
言葉にならない感動がビリビリと身体を走る。

私も夫にも思い付かない感性と表現が、いつもそこには溢れているから。

弱者とは何だろうか。

両親が共に要介護状態となって、福祉のサービスを利用し始めた。
歩いて5分とかからない場所でも、何倍もの時間がかかる。準備の前準備まで必要になる。

生産性など気にしていられないほど、時間が取られる。
この取られる。という感覚こそが、存在価値の話に繋がっているのだと実感した。
奪うもの奪われるもの。生み出す者生み出さない者。

ただ忙しすぎる日々が過ぎ去って、
過ぎ去ろうとする刻に感じたのは、今を生きるだけで精一杯だなと、それだけだ。

先の生産性、合理性、利益を生み出す
そんな軸だけで、人は生きられない。命だから。

〇〇性とかで
私の命を動かしていないし、止められもしない。

だから、ただ生きようと思う。
真っ直ぐに。


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