2021/7/20
仕事を再開してもうすぐ1年。毎日多くの心身不調者が新たに発生。
彼らの心の中の「こうあらねばならぬ」思い込みをがたがた揺らして、その癒着を外してあげたいと思いながら毎日仕事をしている。
頭の良さというのは2パターンあって、大きく分けると
Aタイプ;暗記や決まっていることを繰り返すのは得意だが、自ら判断するのは苦手(一方通行)
Bタイプ;経験を重ねるごとにどんどん学習能力が高まり、合理的な判断ができる
だと思う。
従来の教育はAタイプを量産することを目的とされていて、まだ日本はその大きな流れから抜けられていないのではないかと思うことが多い。「みなと同じが良しとされる」みたいなね。
学校で習う授業の内容にどんな意味があるのか、学生の頃はわからなかった。正直必要でないと今でも思う内容もたくさんあるけど、学校で習うことは自ら何かを考えて判断するときの、参照の仕組みの基礎をつくるものであると思う。特に大切と思うのは国語と理科。国語は物事を理解し、自分の言いたいことを伝えられるために(外国語の前にまず国語)。理科は、自分の体も含めたこの世界で起こっているサイエンスをきちんと理解できる基礎に。
心の基礎は家庭で。知識は授業や本やフィールドワークで(方法は自分に合っていればなんでもいいと思う。学校に通学しなくても)。地固めをして自分で検索スキルを身に着け、知りたいことを知りに行けばいい。何が正しいかは極論その人の中にしかないのだから、自分で自分だけの正解を見つけられる、Bタイプを目指していきたい(自分も子供も)。
悩んだときは自分を見つめてみる。まずは自分の正面に座って。1メートル上から、10メートル上から、宇宙から、高い次元の自己から。宇宙規模で見たら、大したことじゃないと思えることもたくさんあると思う。
昭和の時代は学歴やどの組織に所属するかで枠組みが決められ、他人の決めた幸せの形をみんな目指した。そしてどんどん受験の低年齢化が進み、今や幼稚園に入る前から幼児教育も盛ん。でもそれって、やっぱりAタイプに偏ってしまう部分もあるんじゃないかなあ…と思う。時代の流れと合わないよね。
我が家は小学校受験をしないことにした。子供の気持ちという器の中に、「~したい」、より「~ねばならない」を増やしてしまうことを避けたかったから。今は親に触れ、兄弟に触れ、土に触れる時期だと思っているから。
「息子さんにはどんな子になってほしいですか」とたまに聞かれる。
私は息子たちには「幸せを味わってほしい。体のどこも痛くなく、自分が無条件に愛されているとわかっていて、純粋にその瞬間を楽しめる人間になってほしい。自分が幸せな時は何をしているときか、知っている人になってほしい」と思っている。○○という職業になってほしい、とかは全く無し。隠居生活で草木と会話しててもOK、それが本人の幸せなら。
わたしもまだ古い観念の眼鏡をかけている。その眼鏡を「かけていると気づいている」ことだけでも全然違うと信じて、内観をする日々。あんまり時間は取れてないんだけど。
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