逆らえないモノ
人には逆らえないモノがいくつかある。
そのひとつに「重力」。
今回は重力について考察してみる。
私たちはこの世に生を享けた瞬間から既にこの重力に囚われている。
言葉のアヤだが、
産まれ落ちる、という言葉に重力を感じたことから今回のテーマとして取り上げてみた次第だ。
この重力は何も身体的な話だけではなく、精神的な面も持ち合わせているのではないだろうか。
例を挙げると、知識。
この知識という概念には階層がある。階層があるということは上下の概念があるということに繋がる。
知識は、蓄える、積み重ねる、というように仮想の物質としてモノゴトを認識し、そこに融合したり重ねたりして大きく、ないしは広くしていく。積み重ねるにはそれこそ重力が必要だろう。蓄えるには貯めるということから、積み重ねるという行為に因むが、積み重ねるはベースを要することに対し、蓄えるは場所を要する。
このことから知識として定着させるには場所とベースを用意しなくてはいけない、と仮定できる。奇しくも定着という言葉にも重力が働く。
「知識」という言葉ひとつを掘り下げていくだけでも、やはり色々な重力の元、事柄が説明出来うる。
では、重力が働かない、ないしは逆らうモノとはどういうモノなのか。そもそも存在するのだろうか。
電波や光も重力に逆らうことは出来ない。重力が働かないモノは科学的に仮定されている正体不明の物質、「ダークマター(暗黒物質)」が取り上げられる。このダークマターはそもそもそんなモノは存在しない、という論争もあるくらいに正体不明なのだ。専門外なのでここまでとする。
やはり物質となるとどうしても重力が働いてしまうようだ。では精神世界ではどうだろう。
「想い」は既に空想的な世界に住処を要している時点で重力が働いているだろう。
「夢」はどうか。
夢は見るモノでもあり、叶えるモノでもあるが、夢を掴むという言葉から物質的な要素があり、それは重力が働くような気がする。そもそも頭の中で考えているモノは全て自身の重力に従っている。
何か重力が働かないモノはあるのだろうか。
無重力空間と言えど、身体を維持出来ているのならそれは自身の重力に四肢が従っているのだろう。自由では無い。
自由、、、
重力が働かないということ=
自由、ということになるのではないだろうか。
強引だが重力から力を除けば「重」になる。
じゅう、じゆう。惜しい。
重いと想い。これも歯痒い。
どうやら今のぼくでは結論に至ることは出来なさそうだ。完全に敗北だ。
重力とは何なのだろう。
知りたいようで知ると面白くなくなりそうで。
とんでもないテーマを取り上げてしまい押し潰されそうだ。
まぶたの重力に抗うことさえ出来ないぼくたちは、今日もまた温かいモノに包まれながら落ちることになる。
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