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祖父が「ママ」だったから

2023年3月28日。
静岡県伊東市にコメダ珈琲がオープンするそうだ。
伊東は元来根無し草だった祖父が最後の30年を過ごした場所だった。
伊東とコメダ。ふたつの単語で祖父の記憶が蘇ってきたので、少し書きたいと思う。

祖父と高知

祖父は高知の田野町生まれだが、育ちは大連だった。もちろんよく知らない。
大叔母がよく田野や大連のことを話すようになってきたので、最近少し知った程度だ。
戦後大連から引き上げてきて、祖父は田野町の役場で働いた。
8人兄弟の長男であった祖父は、弟妹のためあくせく働いたそうだが、家ではひとりだけ大好物の玉子を食べ、羨ましがられていたそうである。
働き者で偉そうな、典型的な昭和の男だ。
偉そうなのは最期までとんと変わらなかった。

そんな祖父の生家は未だ田野町に残っており、現在小さなアロマショップとなっている。
親戚の方が経営しており、縁があって大叔母たちと一度尋ねたことがある。大叔母は懐かしさに目を細めていた。
田野にいたのはそう長くはなかったようで、総評で働くようになった祖父はいつしか神奈川に流れ着いてきた。この辺りは全く知らないし、総評というのもどういったものかよくわからない。
調べたら日本労働組合総評議会と出てきた。小難しくてわからない。

祖父と孫

参議院議員秘書だった祖母と出会い、川崎で母が生まれた。稼ぎが良く母はお嬢様だった。
母の人生は割愛する。今はどうでもよろしい。
母が結婚し、祖父は藤沢に引っ越した。私が生まれた頃に伊東に移り住んだ。祖母が喘息持ちだったので空気が綺麗なところを探したらしい。
知り合いに設計してもらった特注の家だった。金持ちはずるい。
私が小学校高学年になっても祖父は毎週伊東から遥々こちらにきて、東京へ通勤していた。タフだ。父は嫌がっていた。まあ肩身狭かったろう。

よくカルピスシュークリームを買ってきてくれた。
私を初めてお風呂に入れたのも祖父だし「ママ」と呼んだのも祖父だった。母は固まったらしい。
何から何まで祖父に教わった。お箸の持ち方、ナイフとフォークの使い方、書き初め、漢字、運転の際の右大回り左小回り。最後のは小学生には早かったと思うが。
お陰様で祖父の尻から生まれた子と呼ばれるほどジジコンに育った。
厳格だったが、デロデロに甘かった。

祖父とシロノワール

一人娘の一人孫というのもあり、私はそれはそれは我儘になった。
短大に入り1ヶ月もしないうちに逃げ出した。離婚した父の家にこもりしばらく帰らなかった。
その間に祖母が癌になりわずか3ヶ月程度で逝ってしまった。1、2回イヤイヤ見舞いに行っただけだった。祖父はどう思っただろう。
祖母の死をきっかけに帰宅したが、ほどなく精神を病みカウンセリングに通うようになった。20代はほぼ暗黒の日々を過ごした。
隔週末母に連れられ、伊東で一人暮らす祖父のもとへ行った。祖父は最初こそ元気がなかったが、自分でご飯を作ってテレビを見て、たまに娘と孫が来て、それなりに楽しそうだった。
私は祖父に怒られるのが怖くてあまり気が向いてなかったのだが…

私の精神が少し落ち着いてきた頃、祖父の不調も増え出した。こちらの病院へ母と通ったりしていた。
そんな頃に祖父とコメダ珈琲に行った。
祖父はシロノワールが大変気に入ったらしく、それからCMを見るたびに「あれは美味かったよな」「平塚で食ったよな」と口にしていた。
90が近くなりボケも混じり出した祖父であったが、美味しかったシロノワールのことだけは絶対に忘れなかった。
もう一回たべたいね。そう話し合っていたが、祖父の体調は悪化し、なかなかこちらに来られなくなり、コメダには行けなかった。

祖父は91歳でこの世を去った。
血液に酸素が行き渡らなくなってしまったのが原因だった。
体の老化によるものが大きく、まあ所謂寿命といったところで、そんなに悲しみはなかった。

コメダは悪くないのに

今日、コメダ珈琲が伊東にオープンすることを知った。
祖父が亡くなってから2年半余り。
母に伝えたが、「もうちょっと早ければなぁ」「もう一回食べさせてあげたかった」と零された。
その場ではなんとか堪えたが、布団に潜った今何故か涙が溢れ出した。

伊東にはまだなんだかんだ行ったりしているが、新しくオープンするコメダには多分行かないだろう。
だってじーちゃんを思い出してしまうから。
今ではすっかり働いている私はやっぱりジジコンで、いい歳になってじーちゃんのお下がりの布団を濡らしているのだ。

おしまい

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