大奥(PTA) 第二十一話 【第四章 青梅】
【第四章 青梅】
その時、
「ただいま。母ちゃん、何かおやつは?」
と、元気の良い声がして、齢九つくらいの男の子子が、醫院の正面入口から診察室に入って参りました。
「健太郎! こんな時分まで何処へ行ってたの。あと、御勝手口から入って来なさいと何度も言っているでしょう? 患者様がいらっしゃるのですよ。いつも言っている様に、帰ったら先ず手を洗うのですよ。無患子の石鹸できちんとね」
看病中間(看護師)姿の常磐井様は、母らしい小言を言いながら、上の息子の健太郎君を迎えました。
「はあい。明日の鷹狩りで三年の鷹匠頭(リレーの選手)に選ばれちまったから、皆と秘密特訓してたんだ」
と頭をぽりぽりお掻きになりながら、健太郎君は深刻そうな大人の話に興味深々のご様子でした。
<遊技場(パチンコ屋)>
「して、先生。主人は何処に?」
安子様がお話を元に戻すと、赤鬼先生はこうお答えになりました。
「そうそう、牧野の倅の話だったな。いやあのなんだ、あいつならこの時分は大概、遊技場(パチンコ屋)に居るんじゃあ無いかな。そういやあ、先週もあすこで見かけたもんでさ」
赤鬼先生のお言葉に、常磐井様が怒った顔で畳み掛けます。
「あらやだ、おとっつあん、いえ先生。遊技場(パチンコ屋)にはもう行かないと、前にあれほど約束した筈じゃ」
赤鬼先生は、頭をぽりぽり掻いて決まり悪そうにしておいででした。そこへ健太郎君が、
「五丁目の三河屋の隣の、あの遊技場(パチンコ屋)だろ? 俺、サッと行って呼んで来てやらあ。なあに、急患が来た時、しょっちゅう爺ちゃんを呼びに行ってるから、道なら任しときな。着いたら、牧野さまあ、いらっしゃいますかあ! と叫びゃあいいんだろう?」
と得意げにおっしゃると、流石は鷹匠頭(リレーの選手)の健太郎君、羽根の様な軽い足取りで外へ飛び出して行かれました。
「ほんにまあ、御恥ずかしいこと。こんな父ですが、医者としての腕は確かなのですよ」
常磐井様は呆れながら安子様に仰いました。
「こんな父ってなんだい? 出戻りに言われたか無いね。一昨年このお慶が、離縁して息子二人連れて出戻って来ちまってから、口うるさくってしょうがねえや。まあ確かに、仕事は助かっちゃあ居るけどな」
「出戻りって、ひどいわ。おとっつあん、いえ先生。いらない事ぺちゃくちゃ喋ら無いで下さいよ?」
口喧嘩はしても、仲の良さが滲み出る常磐井父娘の会話を微笑ましく聞きながらも、一方で、安子様の心は晴れる事はなく、どんよりしておりました。お子たちを確かに夫に預けたはずが、御病弱で気鬱気味のお義母様の所にさっさと置いて、ご自分は遊技場(パチンコ屋)で遊び呆けていると? 初島様や、常磐井様、赤鬼先生等、沢山の他所様に多大な御迷惑をお掛けした上、私自身もここ数刻、花子の身が心配で心配で、胸が潰れて生きた心地もしなかったのに。幼い太郎なら尚更、深く心を痛めて居るに違いない。
安子様は深い溜息をつかずにはいられませんでした。
しばしの沈黙の後、安子様は診察室に掛けてある一幅の絵にお気づきになられました。その絵には、何やら赤い猿の様な人形と、尖った緑の葉、あと杵の様な棒が描かれておりました。
「先生、この絵は?」
と、安子様が赤鬼先生にお尋ねになると、
「ああ、これね。この絵は麻疹絵って言って、疫病除けのまじないさ。医者の儂がこんなもんで縁起担ぐのも可笑しな話だが、稚児医者(小児科医)なんてものを長年やってりゃあ、色んな怖え流行病を診て来た。
特に体力の無い子供の命なんてえのは儚いもんでさ。手の施しようも無い事も何度も有った。流行病でなくっとも、昔から、『七つ前は神のうち』なんて言ってさ、子供の命ってのは、そりゃあ儚いもんなんだ。ちょっと目を離しただけですぐどっかへ行っちまうし、危ねえ物もそこら中に有る。今日みてえに、食っちゃ行けねえもんを分からねえで口に入れちまったりさ。医者だって、こんなまじない絵でも貼って、縁起の一つも担ぎたくなるってえもんだよ」
「ああ、それでこの絵を……」
安子様は麻疹絵に描かれた、まるで子供が元気に手を伸ばして居るような形の、丸く赤いさるぼぼ人形と、昔からまじないを書いたり占いに使われるという多羅葉の葉、疫病除けの南天の木で病を打ち砕くと言う縁起の杵などに見入っておられました。
<ご夫君>
そこへ、
「ただいま戻りました! 牧野様を連れて参りましたよ」
と言う、健太郎君の元気なお声が診察室中に響き渡りました。
安子様のご夫君の顔を見るなり、赤鬼先生は手招きしてこう仰いました。
「おう、牧野の倅。まあそこに座れい。いやあ、遊技場(パチンコ屋)で見る時は座ってるから分から無かったが、立ってるのを見るとまあ、でかくなったもんだなあ。儂よりずっと、丈高いじゃねえか。昔はよう、こんな、こんなに小ちゃかったのによう」
赤鬼先生は話しながら、お座りになっている御自分の胸の辺りを手で示されました。
「先生、本日は、娘が大変お世話になり、ご迷惑をお掛けしました」
安子様のご夫君は赤鬼先生に頭を下げると、赤鬼先生は、衝立の方に目をやって、こう仰いました。
「おいおい、儂に謝ってる場合じゃ無いだろう? 先ずは娘さんの様子を見てやんな」
赤鬼先生の言葉を受けて、御夫君は、衝立の奥ですやすや眠っている花子様に目を向けられました。
「道中、お孫さんから聞きました。本日は、母が、ちょっと目を離した隙にこんな事になってしまって」
安子様のご夫君がこう仰ると、赤鬼先生が呆れ顔で畳み掛けます。
「おや? 聞いてた話と随分違うじゃねえか。今日は奥さんが、お子さんらをあんたに預けて出立したって聞いたよ? なんでとっとと置いて遊技場(パチンコ屋)なんかで遊び呆けて居たんだい?」
「それは……。いや、以前に安子から、母の体調が悪いと聞いてはおりましたが、実際訪ねて話して見たら、言う程でも無さそうでしたので、子守ぐらいなら出来るだろうと思って、つい……」
それを聞いた赤鬼先生は、まさに赤鬼のごとく顔を赤くして、目をぎょろりと光らせ、ご夫君を睨みつけてこう仰りました。
「子守ぐらいなら、つい、だと?」
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