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代替可能性と持続可能性

当初はボランティアで始まった街場の活動も、続けていくと必ず壁にぶち当たる。曰く「金も貰えないのに何でそんなことやってるの」。家族や友人からの素朴な疑問や、もう少し強めの叱責か。あるいは自分の内なる声だったりもする。

こうした声に応え活動を持続していくために、稼げる方向に舵を切るという判断は当然あり得る。それでもって幾ばくかの支払いを、労働の対価として仲間同士が支払い、受け取る。

だがここに落とし穴がある。対価として貨幣を使うということは、他と代替可能である、というメッセージを否応もなく突きつけることになる。つまり、あなた(の仕事)は私にとって換えが効く存在だと。これは、自分だからこそやれていた、できていた、というボランタリーな心意気を大いに損なう危険性を孕む毒饅頭だ。

「金の切れ目が縁の切れ目」という成句があるが、ミスリードだと思う。そもそも貨幣交換には、縁を結ぶのとは真逆の効用が発生する。贈与に伴う返報性のリードタイムを限りなくゼロにするのが、貨幣が持つ大きな機能の1つなのだから。円が絡めば縁は引っ込む。

「コミュニティビジネス」「スモールビジネス」といった言葉が流行り、地域での活動を継続していくためには、貨幣交換の市場に組み込まれるべきだいう風潮が、ここ10年ほどあった気がする。新たなコミュニティカフェや地域拠点が登場しては、儚く消えていった。一握りの成功事例も、微妙なバランスの上に成り立っている。(というのは身の回りの実感というだけで、偏った見方かもしれない。むしろ試行錯誤を経て、マネタイズの手法が洗練されてきたと見る向きもある。)

さておき、街場の活動にはお金に換えられないものがある。換えてしまうと失われてしまう領域こそが、実は本質的なことだったりする。というのがここ最近の悟り。ならばそのボランタリーな発意をどう持続させ、つなげ、広げていくか。忙しい日常のなかで、優先順位をどうやって高く保ち続けることができ、仲間にも強制することなく参加し続けてもらえるのだろうか。

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