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レビュー「御恩」星の女子さん 4月21日14:00 七ツ寺共同スタジオ ※ネタバレあり

作り手であれば、誰しもその創作過程で「御恩」を感じないわけにはいかない。そして、「御恩」を感じたからには「御恩」は作り手の創作過程に侵入し、作り手の懊悩を刺激し、激励よりは手厳しい叱責を、褒賞よりは突き放す無関心を与え、作り手の創作を揺り動かす。しかし、揺り動かされているのは作り手だけではないのだ。誰に対する、何に対する「御恩」なのかがはっきりすると、作品そのものが作品そのもののなかで揺り動かされて、逆流を引き起こすように仕組まれている。「御恩」の向きが完全に切り替わる。そして、この「御恩」の逆流こそが「祝祭(公式サイトの劇作家のコメント)」なのだ。逆流を引き起こすためのアクロバットな手法を見ていこう。


まず現れる「御恩」は童話作家の先人たち、グリムとアンデルセン、そしてルイス・キャロルであるが、重要なのは彼らの登場の間に、毛布に包まり亡霊のようにして現れた「御恩」の正体である。後々、それは童話作家の作品中の登場人物だと判明する。作り手には先人のみならず、登場人物に対する「御恩」がある。確かにそこまではよくわかる事柄だろう。しかし、その前に童話作家が自分の作品を心の底から読ませたいと願っている寝たきりの父親、全身を毛布に包まれ、もはや生きているのか死んでいるのかがわからない父親の話を差し挟む必要がある。そう、全身毛布に包まれた童話作家の父親はまさに登場人物と瓜二つの姿をしている。なぜ父親なのか。童話作家から生まれる造形(介護)が必要な登場人物を指し示しているのであれば、子である方がよいのではないか。そして、童話作家の父親は舞台には登場しない。い「ない」のである。い「ない」がゆえの「ある」への反転。ここに逆流の仕掛けが施されている。子=童話作家が、父=登場人物を生み出す逆流を。


演劇は「ある」と「ない」どちら寄りの芸術かと言えば、「ない」に大きく傾いていく芸術であろう。芝居が終われば、消え去らなければならない宿命を抱えている。その宿命を過剰までに突き詰めていくと、ベケットの「息」のように舞台は消尽(「ない」)するために存在(「ある」)するようになる。しかし、そのまた逆もあり得る。「御恩」のなかで話されていたヴェンダース「ベルリン 天使の詩」で引用されるハントケの詩の一部を読んでみよう。


子供は子供だった頃

いつも不思議だった

なぜ

僕は僕で君ではない?

なぜ

僕はここにいて

そこにいない?


「御恩」で解釈されているように、「僕が君を思っているのであれば、たとえ君がそこにいなくても、君はそこにいる。なぜなら、僕が君のことを思っているのだから」と捉えると、「ない」が「ある」へと逆流してしまう。あとはこの方向性を劇中での他の事柄と重ね合わせていけばいい。童話作家から全身を包む毛布を脱いで現れる登場人物への「御恩」は、今度は登場人物から自分をかたちづくってくれた童話作家への「御恩」へと逆流してく。そうすると見えてこないだろうか。役者への「御恩」と観客への「御恩」が。テーマとモチーフとストーリーの区分けもまた同じように揺らぎ出して、覆されていく。デカルトをもじってこう言い換えてもいい。


我、君を思う、ゆえに君あり

我、役者を思う、ゆえに役者あり

我、観客を思う、ゆえに観客あり


舞台上で登場人物が役ではない役者のことを、観客のことを語り出すのは禁忌にあたる。敢えてそれをする手法もあるにはあるが、安直すぎる。他に方法はないのかを突き詰めていくと、このような「ない」を「ある」へと逆流させる方法へと行き着く。登場人物たちが役ではない役者のことを、観客のことを言葉にしなくても思いさえすれば、役ではない役者は、観客は、同じ劇中、同じ舞台上で、共に存在(「ある」)し得るのである。劇中には、舞台上には本来い「ない」はずの役ではない役者と観客が「ある」ことになる。これこそまさに「祝祭」であろう。「御恩」と響き渡る「祝祭」である。


そう、「御恩」においてはカーテンコールの後までもが作品なのだ。演出家兼俳優がカーテンコールの後まで役(ルイス・キャロル)を解かないのはそうした理由ではないか。そして、カーテンコールの後で、物販と称して、役者との交流だと称して、観客を舞台上に上げることもまた同じ理由ではないのか。観客が舞台に上がって歓談している間もまだ「御恩」は続いている。


こうなるともうチャーリー・カウフマンの脳の映画ならぬ、脳の演劇の様相を呈してきている。演劇という本来、身体性を重視する芸術において革新的な反転を為そうとするためには、脳の演劇という逆説=逆流が必要なのだ。すべてが脳に引き摺り込まれる。

「考えるということは行動より真実や現実に近い」チャーリー・カウフマンの「もう終わりにしよう」の一節だが、「御恩」にも相応しい言葉ではなかろうか。どちらの作品も死の側からの眼差し、無からの眼差し、消失点からの眼差しによって、脳が構成されているのを知っているのだ。

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