《10分要約》Vol.3 『友だち幻想 人と人との〈つながり〉を考える』(菅野仁)
はじめに
日本青少年研究所『高校生の意欲に関する調査』によると、日本の高校生は「偉くなりたいとは思わない」「そこそこ生活できればいい」という醒めた意識が目立つ一方で、「一生つきあえる友人を得たい」「いろいろな人と付き合って人間関係を豊かにしておきたい」という「友人重視指向」の傾向が突出して高い。しかし、人間関係を重視する調査結果とは裏腹に(いや、だからこそなのかもしれないが)、様々な人間関係の問題や悩みを抱える人たちが増えている。これは、現代社会に求められている「親しさ」のあり方が変化しているのに、これまでの「人と人とのつながり」の常識(幻想)にとらわれているからではないか。今まで無条件に良いものと考えられてきた「親しさ」のあり方について、根本から見直す必要がある。
第1章 人は一人では生きられない?
かつて(昭和30年代くらい)の日本には、いわゆる「ムラ社会」という言葉でよく表現されるような、近所に住む人たちのつながりが濃密な地域共同体が存在していた。戦後復興期の貧しい社会では、生活に必要な物資を調達するにしても就職するにしても、いろいろな人たちの手を借りなければいけなかったからだ。物理的に一人では生きられなかったので、「村八分」がペナルティとして機能した。しかし、豊かになっていくにつれて、生きるために必要なものの多くは、貨幣で媒介されたサービスとして享受できるようになった。とりわけ今は、ネットショッピングと宅配を使えば部屋から一歩も出なくても生活できる。もはや「人は一人では生きていけない」という、これまでの前提条件が成立しないのだから、人とつながることが昔より複雑で難しいのは当たり前なのだ。
私たちが生きる社会は、経済的条件と身体的条件がそろってさえいれば一人でも生きていける社会だが、そうは言ってもやはり一人はさびしい。なぜなら、本質的に人間は、つながりを求めるものだからだ。人とのつながりが、人間の幸せのひとつの大きな柱を作っているのは確かだ。しかし、現代社会は多様で異質な生活形態や価値観をもった人々が隣り合って暮らしている。みんなが同じような職業や生活形態であることを前提とした「古い共同体的な親しさ」、すなわち同質性を前提とする「凝縮された親しさ」の作法から自覚的に脱却し、人と人との距離感を見つめ直す時期が来ているのだ。
第2章 幸せも苦しみも他者がもたらす
人が「幸福」を感じるモメント(契機)は二つある。
①「自己充実」(自己実現)
自分の能力を最大限に発揮できる場を得て、やりたいことができることで歓びを感じる場合である。
②「他者との交流」
これはさらに二つに分けて考えられる。
(1)「交流そのものの歓び」(その場の時間と空間を共有していることそれ自体への心地よさを得て感じる歓び)
(2)「他者から承認される歓び」(何かを人から認められることで感じる歓び)
この中でとりわけ人間にとって非常に重要な「幸福」のモメントが「他者から承認される歓び」である。もし他者から高く評価された(承認された)ことが、自己充実とセットになっているような場合には、これ以上ないほどの歓びを得られるに違いないだろう。
「他者」というのは「自分以外のすべての人間」であるが、「他者」には大きく二種類ある。一つは「見知らぬ他者」(他人と同義)で、もう一つは「身近な他者」である。ここで問題になるのは「身近な他者」である。
哲学者の竹田青嗣氏は、「他者」という存在は「驚異の源泉」という性格と「エロスの源泉」という性格の二重性を持っていると指摘する。「エロス」というのは「生のあじわい」(生の高揚)と言い換えられる。他者は私に恐怖を感じさせたり、傷つけたりする存在である一方で、他者は私を認めてくれたり、ほめてくれたりする存在である。他者とのつながりを持たなければ、脅威もないかわりに、生のあじわいもない。私たちにとって「他者」という存在がややこしいのは、この二重性に原因がある。
第3章 共同性の幻想――なぜ「友だち」のことで悩みは尽きないのか
社会学の考え方で、スケープゴートの理論というものがある。「スケープゴート」とは、旧約聖書の中に出てくる贖罪用の山羊のことである。旧約聖書の時代には、人間の罪を山羊に背負わせて荒地に放す、という生け贄の儀式があった。そこから転じて、人々の憎悪や不安、猜疑心などを一つの対象(個人や集団)に転嫁して、矛先をそちらにそらせてしまうことを、「◯◯をスケープゴートにする」などと言う。
いつも一緒にいる友だちのグループで、その場にいない友だちの悪口を言って盛り上がることがあるが、これは、その場にいない第三者を排除することによって、その場の「私たちの親しさを確認しあう」といういわばスケープゴート(生け贄)の作法である。
けれど、こうした振る舞いは、今度はいつ自分が排除される側にまわるかわからないという新たな不安を生み出す。その不安からますます固まって一緒にいるという状態が生まれる。この発展形といえるのが、「携帯メール」を介したコミュニケーションにおける、「即レス」をしなければならないというプレッシャーである。レスポンスの早さによって「私たちの友情や愛情を確認しあう」わけだが、これによって常に緊張した状態、心が休まらない状態をお互いに作り合っている。本当は幸せになるための「親しさ」のはずなのに、それが逆にお互いを息苦しくさせる。このような妙な関係を「同調圧力」と呼ぶ。大人の世界も例外ではないが、特に同じ年代の若者が集う同質の集団である学校という場は、どうしても同調圧力が高まる傾向が強い。
日本社会はハード面(物的環境や法的な制度)では十分近代化したかもしれないが、ソフト面(精神面や価値観)では、まだまだムラ的な同質性の関係を引きずっている。ムラ的な伝統的共同性の根拠は、「生命維持の相互性」だった。それは貧しい生産力を基盤とした生活だったがゆえに相互扶助的な共同体が必要だったからだ。
しかし、現代における共同性の根拠は、「不安の相互性」である。情報や社会的価値観が多様化する中で、伝統的な価値観が薄れていき、自分自身で価値観を立てることが求められるようになった。たしかにムラ的共同性では「出る杭は打たれる」「長いものに巻かれろ」といったことわざが示すような同調圧力が強かったが、逆に言えば自らで考えずとも同調していればよかった。しかし、今は立脚できる絶対的な価値観がなくなったため、自分で考え、価値観を立てなければならない。頼れるものがないというのは不安を生む。その結果、自分と同質の集団を作って「群れる」ことでなんとかそうした不安から逃れようとする。こうして現代における新たな共同性への同調圧力が生まれる。これを「ネオ共同性」と名づける。
リースマンというアメリカの社会学者は『孤独な群衆』(1950年)という著書において、人間が持つ「社会的性格」を三つに類型的に分けた。
①「伝統指向型」…近代以前の社会に支配的な社会的性格
(特徴)自分の主体的な判断や良心ではなく、外面的権威や恥の意識などに従って行動の基準を決める
②「内部指向型」…近代の形成期に見られる社会的性格
(特徴)自分の内面に心の羅針盤を持って、その基準に照らして自分の行動をコントロールする
③「他人指向型」…現代人の社会的性格
(特徴)自分の行動の基準を他人との同調性に求める
この類型に照らし合わせてみると、①「伝統指向型」は「ムラ的共同性」、③「他人指向型」は「ネオ共同性」に対応する。
人間はもともと本質的に共同性を備えた存在であるが、ムラ的共同性で望ましいと考えられてきた人間関係のあり方は「同質的共同性」(「みんなと同じ」ということを大切にする価値観)である。一方、現代社会における人間の共同性は「抽象的共同性」と言い表すことができる。現代社会は貨幣に媒介された社会である。貨幣とは、共同性という人間的本質が、抽象的な形で具現化したものである。その貨幣を媒介することによって、人間の共同的本質が世界規模に拡散したのが現代のグローバル社会である。つまり、グローバル社会とは、人と人とのつながりが、これまでの直接的依存関係から、貨幣を媒介にする間接的依存関係へと変質した社会である。そしてこうした生活基盤の成立によって時間的余裕が生まれ、また生活様式や価値観の多様化が可能になっている。
しかし、こうして個人の自由の追求や個性の多様化が進んでいるにも関わらず、その一方で「ネオ共同性」という新たな同調圧力が生じて拘束を感じことが人間関係の厄介な問題や歪みを生んでいるのである。
この問題を解決するキーワードが「並存性」(共在性)である。現代社会は、昔のように「同質的共同性」が成り立つ現実的な根拠がもう存在しない。昔の「地域」はいわゆる集落のような濃密な近隣ネットワークに支えられていた。そうした土着的な共同的生活が基盤となっていた「地域」が存在していた時代には、「同質的共同性」が成立した。しかし、現代社会における「地域」とは単なる偶然にその場に住んでいる人たちの集合体でしかない。学校も含めて単なる偶然的な集まりで構成される現代社会においては、自分とは異なる価値観を持つ人々が同じ時間や空間を共有することが避けられない。そうである以上、「気の合わない人と一緒にいる作法」が求められている。無理に関わることは、お互いに傷つけ合うことにつながる。これから必要なのは「やりすごす」という発想である。
ニーチェは「ルサンチマン」(恨み・反感・嫉妬)というキーワードに焦点を当てた。人が生きていく上で、うまくいかなかったりすると、ルサンチマンに絡め取られそうになる場面はたくさんある。また、「同質的共同性」を求めすぎると、そこから外れた相手をルサンチマンのターゲットにしてしまうことになりかねない。しかし、そうすると自分自身の「生」の充実を閉ざしてしまうことになる。ニーチェは「愛せない場合は通り過ぎよ」という警句を残したが、これはまさに「自分は自分、人は人だ」「私とは関係ない」と考えて「やりすごせ」ということである。何か共通の目的があるときに、期間限定で団結して一生懸命になれることはいいことだが、日常的にはあまり濃密な関係を他者に求めすぎてはいけない。濃密な関係からあえて距離を置くことが大切である。
第4章 「ルール関係」と「フィーリング共有関係」
他者と共存していくときに、お互いに最低限守らなければならないルールを基本に成立する関係を「ルール関係」と呼ぶ。一方、とにかくフィーリングを一緒にして、同じ考え、同じ感じ方、同じノリを共有することを前提に結びついた関係を「フィーリング共有関係」と呼ぶ。これまでの学校現場における関係では「フィーリングの共有性」が重視され過ぎてきた。このフィーリングの共有がマイナスの感情(気に入らない・嫌い)によって行われたときにいじめに発展する。
それに、学校はもはやそうたやすくフィーリングを共有できる場ではなくなってきている。だから「フィーリング共有関係」だけを前提にした「みんな仲良くしなければならない」という共同性の呪縛のような考え方では息苦しさを生むことになる。
しかし、現実社会では、例えばどんなに気の合わない部下や上司でも、上司と部下の関係である限りは関わり合って一緒に仕事をしていかなければならないように、これからは「ルールの共有」をベースとした関係を成立させ、仲が良くても良くなくても、とりあえずお互いが平和に共存することができるように発想を転換していくべきなのだ。ルール関係の土台が築けている上で、「フィーリング共有関係」も得られるのであれば、それはラッキーだと思ったほうがよい。
ルールというものは、自由の幅を少なくするものではなく、むしろできるだけ多くの人にできるだけ多くの自由を保障するために必要なものなのである。「これさえ守ればあとは自由」というように、「ルール」と「自由」はワンセットの関係なのだ。ルールの共有性があるからこそ、自由というものが成り立つ。
「社会契約説」の先駆者ホッブスは、著書『リヴァイアサン』(1651年)において、 人間は利己的な欲望を持つ存在であるため、自然状態(市民国家や法の規則が何も存在しない状態)ではお互いに衝突し合って「万人の万人に対する戦い」という弱肉強食の無秩序状態となり、自分の命を守るという人間が生まれつきもっている自然権が保障されなくなると考えた。そこで、競合する力の間に均衡状態を築くために、誰もが平等で、ある程度の合理性を持つ約束(ルール)を作り、それを『旧約聖書』に登場する最強の海獣「リヴァイアサン」のごとく絶対的な権力をもった政治機構によって守ってもらうことに同意した。このような社会契約によって生まれたのが国家であると主張した。
つまり、「秩序性」というものは、最低限のルールをお互いに守ることの中から結果として出てくるものなのである。どんな社会にでも共通して最低限守るべきと考えられているルールは、「盗むな、殺すな」である。すなわち、社会の成員相互の生命と財産の尊重である。これは、世のため人のためのルールではない。自分自身が安心して安全に生活できるようにするための「生命の自己保存のためのルール」である。こうした観点から「いじめ」の問題をあらためて考え直してみると、いじめる側は今度は自分がいつやられるかわからないという、「生命の自己保存」を脅かす危険な状況を、自分自身で作っていることになる。残念ながら、いじめは「道徳的に良くない」からしてはいけないのではない。そうではなく、「自分の身の安全を守るために、他者の身の安全をも守る」という実利主義的な考え方に基づいて「良くない」のである。
そもそも、クラス全員が仲良くできる、全員が気の合う仲間どうしであるということは、現実的に不可能に近いことである。大人だって、ほとんどの人は何かしら人間関係の悩みを持っている。だからこそ「並存性」という考え方が大事なのである。馬が合わない相手、理屈抜きに気に障るような相手に対しては、お互いの存在を見ないようにしたり、同じ空間にいてもなるべくお互いに距離を置いたりするしかない。ただし、露骨なシカトは攻撃と同じである。最低限のあいさつは心がけるなど、あくまでも自然に敬遠することが大切だ。互いに関心を持ちすぎないようにすることが、「気に入らない人とも並存する作法」である。
なお、ルールを決めるときは、「ルールのミニマム性」というものを絶えず意識することが重要である。「何が大事なルールか、これだけは外せないものは何か」を取り出してきて、それをみんなできちんと守る。それ以外は、あまり硬直化しないように、できるだけ広がりや融通をもたせていくことが、ルール共有関係をより有効に構築するための作法である。人によってルールに対する感覚はかなり違うので、あまり無意味にルールを増やしていくと、集団や組織全体のモチベーションが下がってボロボロと脱落者が増え、やがてもっとも大事なルールすらも守られなくなってしまうため、柔軟なバランス感覚が必要である。
第5章 熱心さゆえの教育幻想
友だちという対等な関係だけでなく、先生と生徒という非対称的な関係にも焦点を当ててみる。生徒の記憶に残るようなりっぱな先生になることを求めすぎると、過剰な精神的関与や自分の信念の押し付けに走ってしまい、生徒の内面を無理矢理いじることになる恐れがある。先生は生徒たちに通り過ぎられる存在であるくらいでちょうどいい。もし尊敬や敬愛を受けて心に残るような先生になれたら、ラッキーこの上ないことなのだというくらいの心構えでいい。
また、「話せばわかる」も幻想である。子どもを性善説で見てはいけない。わかり合えないと思ったときは、やはり距離をとればいい。先生が本当にやらなくてはいけないのは、生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入することよりも、一つの社会として生命の安全を保障することである。そのために共存の場としてのルール性を自分の教室に担保し、その維持・管理を行うのが仕事である。
学校というのは、あえて単純化していえば個性的な子どもを育てる場ではなく、普通の社会人になるための基礎力を育てる場である。先生であるからには、生徒の人格にまで影響を与えなければならないと思いがちだが、その子どもに一生関われるわけではない以上、生徒の人格の育成にまで、先生が責任を持つことは本当はできない。だから、基本的に、先生は子どもの内面までいじろうとする必要はない。それに、そんなふうに積極的に思わなくても、先生という存在は生徒の内面にかなりの影響を与えてしまうものである。自分の影響力の大きさとその責任の限界を同時に見据えるクールな意識を持つことが大切である。
第6章 家族との関係と、大人になること
社会学では、家族を「定位家族」(family of orientation)と「生殖家族」(family of procreation)の二つに分けて捉える。「定位家族」とは、自分が生まれた家族のこと、「生殖家族」とは、結婚して子どもを作っていく家族のことだ。家族(定位家族)との関係のあり方は、幼少期・思春期・青春期と発達段階に応じて少しずつ変化していく。関係のあり方が変化しているのに距離の取り方が変わらなければ歪みが生じる。特にその歪みが生じやすいのが思春期から青年期にかけて(小学校高学年から中高生)の時期である。この時期は、親の「包摂志向」(包み込みたいという心理)と子どもの「自立志向」(親の価値規範などから自立しようとする気持ち)がぶつかり合うからだ。しかし、これはある意味で親子双方にとって必要な葛藤である。この時期は、本人の自立志向をそれなりに尊重しながらも、でも本当の自立はまだまだ先のことなので、自分の子どもがどの程度まで成熟してきているかを見極めながら子どもを支える力が親には求められている。
大人になるというのは、「経済的自立」と「精神的自立」(欲求のコントロールと行動に対する責任の意識)の二つの自立を遂げることだとよく指摘されるが、その他に「人間関係の引き受け方の成熟度」も重要な要素だ。これは他者と折り合いをつけながら、つながりを作っていけることである。
また、大人になるために必ず必要なことであるのに学校では教えないことが二つある。一つは「気の合わない人間とも並存していかなければならない」ということ、もう一つは「君たちの可能性には限界がある」ということだ。今の学校では、「無限の可能性がある」というようなメッセージに偏りすぎて、競争を最小限に抑えようという雰囲気があるが、一方で社会は今、昔以上に「競争社会」「評価社会」である。「無限の可能性」だけ煽って子どものセルフイメージを肥大化させるだけでは無責任といえる。というのも、大人になるにつれて、いろいろな挫折を経験して自分の限界を知ったり、自分より優れている人間がこの世にはたくさんいるということを嫌でも思い知らされるからである。
これは家庭教育でも同じで、褒めてあげることも大切にする一方、世の中には「上には上がいる」ということも教えてあげることも大切な親の役割である。挫折の「苦味」に耐えきれずにルサンチマンの淵に落ちたまま這い上がって来られないような人間にしてはいけない。むしろ、その挫折を自分の中で上手に処理して、「苦味」を「うま味」に変えていくことこそが「生きる」ということなのである。
第7章 「傷つきやすい私」と友だち幻想
今の若い人たちは、先生と生徒という関係を意識した上での親密性の作り方が苦手である。しかし、学校を卒業してやがて社会に出れば、自分たちと同じ属性を帯びる集団以外の、さまざまな世代や価値観を持った人たちと関係を作っていかなければならない。その際、異質性、あるいは他者性というものを意識することが関係作りのポイントになる。
いくら親しく身近な存在であっても、自分が知らないことがあるし、自分とは違う価値観や感じ方を持っている。これを「異質性」という。この他者が持つ「異質性」(自分とは違うということ)を理解して意識するところから、本当の関係や親しさが生まれる。
しかし、フィーリング共有性の高い、同世代で自分と同質の小さな集団の中だけで関係作りをしていると、社会に出たときに必要な作法(言葉遣いや立ち居振る舞い)を学ばないまま社会に出ることになる。それに、フィーリング共有性の高い相手であっても必ず違いは生じる。そうした場面に直面すると関係を保つ努力を放棄するようでは、人と関係を作る力はつかない。異質な他者とも親しさを構築する作法を学ぶためにはある程度の辛抱強さが必要だ。
しかし、若い世代であればあるほど「傷つきやすい私」が増えているように思われる。人とつながりたいけれど傷つくのはいやだという矛盾した自我のあり方と折り合いをつけていくためにはどうすればよいのか。それは「信頼できる他者」を見つけることしかない。注意すべき点は、「私と同じ人」ではないということだ。あくまで信頼できる「他者」である。決して自分のことを丸ごと受け入れてくれる(絶対受容性をもつ)わけではないという理解することが大事なのである。「自分と価値観が100%共有できる友だち」――それは「幻想」でしかない。
他にも、アニメやゲームのキャラクターで、あどけない顔で胸のふくよかな女の子のイメージを見ると、男の子にとっては、幼くて脅かしのない、しかも母性的なキャラクターが理想なのだろうと思い知らされるが、現実の世界にはそんな女の子はいない。
過剰な期待を持つのはやめて、人はどんなに親しくなっても他者なんだという意識に立脚した信頼感を作っていくことが、現実世界で「生のあじわい」を深めていくためには必要なことなのである。
第8章 言葉によって自分を作り変える
他者との関係を深めるためには、相手の働きかけに対して、きちんとしたレスポンスができなければならない。しかし、それを阻害する働きをしてしまう言葉群があり、これを「コミュニケーション阻害語」と名づける。これらは異質な他者ときちんと向き合うことから自分を遠ざける、いわば「逃げのアイテム」としての機能を持つ。
①「ムカツク」と「うざい」
自分の中に少しでも不快感が生じたときに、それをすぐに根拠もなく感情のままに言語化できる安易で便利な言葉である。異質なものと折り合おうとする意欲を即座に遮断してしまう上に、他者に対しての攻撃の言葉としても使える。これでは自分とは異質な他者に対する耐性が鍛えられない。
②「ていうか」
相手の話をまったく引き受けずに、話題を変えていくことによって、うわべだけ会話をつなげていくマジック・ワードである。
③「チョー」「カワイイ」「ヤバイ」
物事に対する先妻で微妙な感受能力がいつの間にか奪われていく危険性を感じる言葉群である。特に「ヤバイ」についてはプラスの意味でもマイナスの意味でも使える万能語であるが、ノリやフィーリングを共有している関係の間でしか伝わらない。
④キャラがかぶる、KY(空気読めない/空気読め)
「キャラ」や「空気」という言葉がよく使われるようになっているが、これは場の期待に合わせた自分の表現の仕方を意識したり、場の空気に合わせた振る舞いや表現を要求されたりする雰囲気が今の若い人たちの間で広がっているからであろう。しかし、あまり周りに合わせようとしすぎると、かえって人とのつながりのなかで自分自身を疲れ果てさせてしまう危険がある。
人間が「生きる」ということにとって最も本質的な核である「生のあじわい」というのは、「阻害語」を使うことによって浅いものになっていく。生の深度を深めることにつながる言葉を、少しずつ地道に自分のものにしていくべきである。言葉のストックを増やしていけば、それまで漠然としていた自分の問題に輪郭をつけて捉えられるようになる。社会学の用語でいうと、「自己対象化」あるいは「セルフモニタリング」の力を身につけることができるようになり、自分と他者とのつながり、自分と社会との関係が少しずつ見えてくるようになる。
そして、情緒や論理の深度を深める言葉を増やすためには、やはり読書が一番の早道だ。読書というのは筆者との「対話」である。読書の良さは、
①その対話を通して情緒の深度を深めていけること。
②繰り返し読み直しができるので、相手を理解するために自分が納得するまで時間をかけられること。
③新しい発見や価値観を自分の中に取り込めるということ。
以上の三点が挙げられる。その結果、少しずつ自分の感じ方や考え方を作り変えていくことができる。読書は決して楽ではない。しかし、楽をして得られる楽しさよりも、むしろ苦しいことを通して初めて得られる楽しさのほうが大きい。これは人間関係にも当てはまる。自分を表現することの恐れを乗り越えて、多少ぶつかり合いながら苦労して理解を深めていくことによって、「生のあじわい」を感じられるような関係を作っていくことができるのである。
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