フィクションは社会的な約束ごとのうえに成立している

 僕たち人間は、フィクションとノンフィクションにたいして期待していることが違います。そして前回書いたように、このことからわかる最初の重要な事実、それは
(1)虚構の対義語は現実ではなく非虚構表象(ノンフィクション。つまり実話とか、日常の報告とか)である。
ということでした。

 そして、ふたつめの重要な事実、それは、
(2) 虚構物語(フィクション)と非虚構物語(ノンフィクション)の最大の違いは、作品自体の性質にあるのではなく、作品が発信され受信されるさいの社会的な約束ごと(取り決め)にある。
ということです。

 webちくまの連載で書いたように、僕たち読者・視聴者・観客は、フィクションにたいする期待とノンフィクションにたいする期待とが違っています。
 ということは、僕たちはそもそも、いま読んでいる(観ている、聴いている)話がノンフィクションであるかフィクションであるかを、あらかじめ知って読んでいる(観ている、聴いている)ということを意味します。
 フィクションとはそれがフィクションだとわかって読むものです。

 では、フィクションはどのような約定(取り決め)のうえに成立しているでしょうか?
「これは作り話であって、話の内容は現実世界の個別の事実に該当するものではない」
といったところでしょう。もちろんこれはふつうは、暗黙の取り決めです。

 作品に触れるよりも先にこれをあらかじめ受け入れたうえで読者・観客は小説を読みはじめ、映画を観はじめます。フィクション作品を作る側も、読者・視聴者・観客がそれを受け入れるということを想定して作ります。それらのコンテンツは作り話であることを隠さずに流通しているわけです。

「そうはいっても、たとえば文章だったら、小説独特の表現があるのだから、なんの予備知識がなくとも、ちょっと読めばそれが小説(フィクション)かノンフィクションかはすぐにわかるよ」
という意見もあるでしょう。

 はい、じっさい、他人の心のなかをのぞき見したかのような書きかたや、遠い場所・遠い過去のことをその場に立ち会っていたかのように報告する書きかたは、小説ならではの書きかたですよね。
 それから、いきなり「彼は」で文章が始まるのだけれど、その男がなにものであるかは、もう少しあとになって読者にはじめて知らされる、というような手法も、小説が発展させてきたものです。
 だから、なんの予備知識もない文章をいきなり見せられても、こういう表現があるならそれは小説だとわかる、ということはあるでしょうね。

 では練習問題。
 以下のふたつの文章は、手もとの本からちょっと抜き出してみたものです。どちらがノンフィクションからの引用で、どちらが小説からの引用でしょうか?

(c)真の哲学と呼びうる思想がみなそうであるように、構造主義とディコンストラクションの内容を知るのは困難である。理解するとなるともっと困難である。完全にマスターするとなるともはやほとんど不可能である。これは驚くべきことではない。
(d)一七七六年八月のある朝、どちらかといえば粗末な身なりの、がっしりした体つきの紳士がロッテルダムの波止場に立っていた。パイプをくゆらせ、旧き良き時代をしのばせる鬘の上に三角帽を無造作に載せたその紳士は、ドルトレヒトの方角に向かって運河をゆっくりと進んでゆく木造の御座船の列をじっと見つめていた。

 一見して(c)は論説文(ノンフィクション)、(d)は歴史小説(フィクション)だ、と直感的に感じられます。

 ところが、正解は逆で、(c)がフィクション、(d)がノンフィクションなのです。

 (c)はマルカム・ブラドベリが1987年に発表した小説『超哲学者マンソンジュ氏』からの一節です(柴田元幸訳、平凡社ライブラリー、12頁)。

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ブラドベリという小説家は、大学の創作科でのちのノーベル賞作家カズオ・イシグロを指導した人です。

 (c)の文は作中で主人公が読んでいる本の引用ではありません。ちゃんと語り手が発する「地の文」なのです(このあとどんなストーリーが展開するのかは、じっさいに読んで驚いてみてください)。
 論説文だろうが私信だろうが政治演説だろうが、どんなタイプの文章でも再現してしまうのが小説という表現形式なのです。

 そして(d)。これも大学教授が書いたものです。しかもこれは小説ではありません。英国出身の歴史学者・美術史家サイモン・シャーマが1989年に上梓した研究書『フランス革命の主役たち 臣民から市民へ』の一節(栩木泰訳、中央公論社、上巻160頁)なのです。

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 学者が研究書でこんな小説のような書きかたをするのか、と驚きますが、引用したそのすぐ後に当該人物(フランス王国の国務大臣)の日記が、この場面の根拠として引用されています。

 この(c)と(d)の例は、「小説独特の表現がある」というのがあくまでたまたまのことであって、目安にすぎない、ということを教えてくれます。

 1861年、リンダ・ブレント著『ある奴隷少女に起こった出来事、当人執筆』なる書籍がボストンで刊行されました。

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 19世紀初頭、奴隷制のあるノースキャロライナに生まれたアフリカ系の少女が、白人医師の家で虐待されたあげく、自由の身分を獲得するためにべつの白人男性の子どもを妊娠しようと試みて……
 と、ここまで要約しただけでもかなりすごい話です。

 この本は、編者として名を連ねていたリディア・マリア・チャイルドが書いた小説=フィクションとして読まれたあげく、その後長きにわたって忘れ去られていました。

 約120年後、20世紀末になって、歴史学者の調査によって、これがハリエット・アン・ジェイコブズというもと奴隷の女性が、多数が生存しているなどの事情で関係者全員を偽名にして書いた自伝=ノンフィクションであった、ということがわかりました。
 大真面目に自伝(ただし偽名の)として刊行したにもかかわらず、小説(それも実話に取材したものではなく、完全に創作の)として読まれてしまったようなのです。

 この事例は、僕たちは作品が実話かフィクションかという判断を、作品本文の文体やそこに書かれた内容よりも、作品・作者にかんする外的情報で判断しているということを示しています。
 情報が少ないばあい(たとえばジェイコブズが平和に生きるためには、作者の正体を知られないほうがよかったはずです)には、それが実話かフィクションかを裁定することが事実上困難であるということもあるわけです。

 「これはフィクションかノンフィクションかが区別できなかった事例ではないか」
と、あなたはおっしゃるかもしれません。

 たしかにそうなのですが、しかしより正確に言うとこれは、「非虚構表象(実話)を虚構だと思ってしまった」事例であって、「虚構表象を非虚構表象(実話)だと信じてしまった」事例ではない、ということになります。

 なお、ジェイコブズのこの作品には、小林憲二編訳の詳註版『ハリエット・ジェイコブズ自伝 女・奴隷制・アメリカ』(明石書店)と堀越ゆき抄訳の『ある奴隷少女に起こった出来事』(新潮文庫)とがあります。

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(つづく)

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