『ポルトガル文』は小説か?

 1669年、パリで『仏訳 ポルトガル文〔ぶみ〕』という冊子が公刊されました。ポルトガルの修道女マリアナ・アルコフォラードが書いた書簡五通から成る書簡集です。
 日本では佐藤春夫訳『ぽるとがるぶみ』(人文書院)と、リルケのドイツ語訳からの重訳『ポルトガル文』(水野忠敏訳、角川文庫)が有名です。


 刊行の数年前、ポルトガルに駐在したフランス軍士官と恋仲になったあと捨てられた彼女が、帰国してポルトガルに戻ってこない相手に送った恋と別れの手紙は、きわめて印象深い内容と文章だったために、このいわば「全仏が泣いた」悲しいラヴレターはその後1世紀以上の長きにわたって書簡体小説に強い影響を与えたといいます。

 それから3世紀近く経った20世紀中盤になって、この手紙はどうやら、原文を入手したと主張していた外交官でジャーナリストのギユラーグ公爵の手になる「作りもの」であるらしいことがわかってきました。「全仏が泣いた感動の実話」ではなかったのです。

 そういうわけで現在この『ポルトガル文』はフランス文学史に残る「書簡体小説」の重要な作例としてよく取り上げられます。じっさい、この作品が技法の点で後続の書簡体小説に与えた影響は計り知れません。
 しかし厳密に言えばこれは小説(フィクション)ではなく、偽書というノンフィクションの一分野に属しています。フィクションにとってもっとも大事な、「これは作り話ですよ」という流通形態が、『ポルトガル文』には欠けていました。もちろんそうだとしても、『ポルトガル文』の文学としての価値に変わりはないわけですが。

 このように、文学作品でも作者の真意というのはわからないもので、300年のあいだ騙されていたという事例があるくらいです。そしてこのことは、フィクションとノンフィクションというふたつのカテゴリの区分にとって、なんの不利ももたらしません

 以前述べた『ある奴隷少女に起こった出来事』とは逆の事例だ、と感じたとしたら、あなたはまだ事態を正確に把握していない証拠です。正確には『ある奴隷少女に起こった出来事』は、
「フィクションかと思ったらノンフィクションだった」
わけですが、『ポルトガル文』は、
「実話(正確なノンフィクション)かと思ったら嘘(騙す意図のある不正確なノンフィクション)だった」
というケースなので、正確に対照なのではありません。

 なぜなら、嘘は作り話であることを隠蔽して流通する作り話であるのにたいして、フィクションとはみずからが作り話であることを最初から謳って流通する作り話だからです。だから「フィクションを実話だと思ってしまうこと」は、なかなか起こらないのです。
 ただし、次回以降のような意味で「読者がフィクションのなかに実話を見出そうとすること」なら、あると思います。

(つづく)

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