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ペテルブルク滞在記 #1

2024年のGW、1週間近くサンクトペテルブルクに行くことにした。途中の平日3日間は有給を取って。昨今の情勢下で彼の国に旅行しに行くことは侵略国側に税金なり金を落とすことになり人道に反すると思うし批判は上がって当然である。しかし、残念ながら終結する見込みがなく(当然だが今すぐに停戦・撤兵するべきである)、最悪情勢が更に悪化して行くハードルが上がったり見たいものが失われる可能性もある。何より、現地には大切な友人がいる。彼女は昨年秋にわざわざ一人で日本に旅行しに来て直接会っている(ビザとかでハードルが高かったと思われる)。それなのに自分が一方的に彼女の元に行かないのはおかしいというか申し訳ないという気持ちもあった。なので、長期休暇が取れるこのタイミングで行くことにした。

出国時、成田空港でチェックイン時にロシア行きということで、税関によるチェックを受ける必要があった。今までネットで知ってた情報より別室で取り調べなのかなと思ったが、実際はチェックインカウンター脇に折り畳みテーブルがあって、紙に書かれた各質問に答えて(チェックを入れて)最後に著名を入れる程度だった。やりとりも錦鯉の渡辺隆似のおっさんとほんわか話す感じだった。自分が対応している途中にアジア系ロシア人女性(高麗人っぽかった)が来たが、日本に住んでいて一時帰国でロシアに向かうようだった。彼女の着ていたシャツに"Русский Мир(Russian World)"的なテキストが書かれていて、日本に住むZなのかと心の中で疑った。


飛行機は中国の航空会社で上海トランジットのペテルブルク(プルコヴォ空港)行きの便を取った。成田を出て4時間後に上海浦東空港について、トランジット(しかも同一ターミナルで入国手続きやビザ不要)にもかかわらずゲートでパスポートを読み込ませたり検温させられたり、中国のハイテク監視社会の切片を体感した。ターミナルの中は白人がそれなりにいたが、ほとんどロシア人であった。露と海外を結ぶ国際便は中国やトルコ、UAEの航空会社しか飛ばさなくなったのでこういう状況は可笑しくないが、海外に出国しているロシア人は少なくないんだろうなと思った。ほとんど都市部の金持ちの人間なんだろうけど。
でペテルブルク行きの便に乗ったら、ファースト・ビジネスクラスは中国か韓国のおっさんばかり(※韓国人はビザ無しでロシアに行けるし、経済的な結びつきも日本より強い)、エコノミーはほとんどロシア人が乗っている状態だった。中国系航空会社の飛行機でこんな感じでほぼ二分化されているのは何となく不思議であり、でも今の制裁の象徴なのかなと思った。8時間のフライトだったが、コロナ禍明けで久しぶりの長距離フライトはキツかった。

蜂起広場とモスコフスキー駅

やることが無く断続的に寝た後、ようやくペテルブルクに着いた。21時到着なのに日が暮れる頃の空色だった。高緯度なので白夜が起きる地であり、GWの時期は日照時間が長かった。時差ボケもあって体内時計が現地に馴染んでいない中で無愛想な女性スタッフに入国手続きを進め、到着ゲートを抜けたら彼女が待っていた。思いやりでタクシーを手配してくれて乗ったが、中年の優しそうなおばさんの運転スキルはスピード出しまくりでウインカー出さずに車線変更しまくりで、個人的には許容範囲内でも日本のタクシーではアウトだったな。主に郊外を走っていて風情があったが、兵士募集の街頭ポスターがちょくちょく目に入り、戦時下であることを忘れないように悪い意味で思い出させてくれる。そして中心部近くのホステルに着いて荷物を置いた後、蜂起広場の地下鉄駅まで一緒に歩いた。夜の(モスクワからの列車の)ターミナル駅前の広場はまさに「夜のヨーロッパに来た」ことを実感した。幾何学的で洗練されたキリル文字フォントで書かれた「英雄都市レニングラード」のネオンライトの看板は、ここが旧ソ連であることを象徴するようだった。
その看板の下では、路上ミュージシャンがKinoの"Звезда по имени Солнце(A star called the Sun)"を歌ってた。聴衆の酔っぱらいの若者も歌ってたが、歌詞の中の"война(war)"を嫌味のように強調していたので、やっぱり彼らも内心は反戦派なのかなと勝手に憶測した。小さな意志表明であるのかなとも。
そして彼女と地下鉄駅で別れ、自分は宿に戻って寝た。

英雄都市レニングラード

2日目、朝5時の日の出で目が覚める。フライトの疲れが取れていないのに。理由は宿のカーテンが薄いからだ。アイマスクを持ってこなかったことを後悔した。いつもは二度寝してやっと朝食が食えるくらい頭が冴えるのだが寝付けず、諦めて日本から持参したカロリーメイトを食って外に出た。

その日は天気が異常に良かった。思った異常に暑かった。ホテルを出たら「Z」のステッカーが貼られたパトカーみたいな車が近くの建物の前にズラッと停められていた。後で分かったが、国家親衛隊の事務所がそこにあったっぽい。そしてその通りの名は「ハリコフスキー通り」。ウクライナのハルキウから取られた名前に違いない(すぐ近くにはヘルソンスキー通りもあったし)。名付けられたのはソ連時代であろうが、宿(古いアパートの1部屋を使ったホステル)の玄関に貼られていた兵士募集のビラを見たのも相まって、目を背けたい現実から逃れられず早速憂鬱になる。
そして朝7時のネフスキー通り、店が開いておらず人通りが少なかったが、祝日の朝なので皆んなまだ寝ているんだと後から分かった。19世紀までに築き上げられた古き良きヨーロッパの街並みで眠いながらテンションは上がる。Pompayaの曲のMVで見たような街の光景を目の当たりにして感動する。


でも5月9日の戦勝記念日を控えていて、通りの上にゲオルギーリボンの飾りがソ連の鎌とハンマーのシンボル付きで掲げられていた。自動車とか細かい点に目を瞑れば、スターリン時代のソ連にいるような錯覚に陥った。あと兵士もちらほら歩いていた。コロナ前にウラジオストクに行ったときもそうだったかもしれないが(なぜかその辺が記憶に残っていない)、この情勢となってはその風景に違う重みが感じられてしまう。

とにかく、カザンスキー大聖堂、エルミタージュ美術館、血の上の救世主教会、聖イサアク大聖堂等、大通り沿いや近くの定番の観光名所を見て写真を撮った。

続く

※本当は色々と街中の様子を写真に残すべきだったが、何かあったときに面倒になりそう&誤解されて拘束とかされたくなかったのであまり撮っていなかった。後から思えば大丈夫だったんじゃないかと思って少し後悔している。



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