あああ

ミスった、ミスり続けていた、ミスり続けていたということに、どうしてずっと気づけなかったんだろう、何度も何度も繰り返してきているのに、何度おなじことを繰り返せばいいのだろう。

素直さなんて簡単でシンプルなことのはずなのに、素直さをやろうやろうとひとりで抱え込んで頭の中でむずかしい理論をこねくりまわして素直さとはなんだなんだと考え続けて、自分を晒すことへの恐怖に気づかない振りをして本質を回避するための理屈にばかり労力を使って、その時間に生み出せたはずの膨大な価値をドブに捨ててきて、回り道もいいとこ、目の前の魚を釣るための釣り竿をつくるための木を育てるための土を準備するための生態系をつくるために神になろうとしていた。僕は神にはなれない。馬鹿じゃねえのか

言葉は飾るためのものでなく、頭の中にどう足掻いても響き続ける声や音を形にして自分を救うためのものだ。飾るために使っていたことにどうして気づけない、気づいているはずなのに、どうやって飾ろう飾ろうという自分のことをメタだとか大層な名前をつけて正当化して、そうやって傷つけられることを恐れているんだ。その傷つきだって自分の頭の中でつくりだしている幻想だ。FINAL FANTAZY

認知で世界ができあがっていて、世界観は世界ではなく、頭の中のできごとである。それに気づいたときからクリア後の世界が始まる。自分のパラメータを天から眺めながら、実際には身体を動かして、足りないものを収集したり、必要なことをやっていく。そう、淡々としている。淡々としているだけでいいのだ。こんな文章を書いている時点でメタという概念が生じている時点で傷つく必要などないわけだ。じゃあなぜ傷つくのか、それはもう自分の意志に他ならない。僕が僕の意志で僕を傷つけている。しょうもないと烙印を押した過去のしょうもない世界観、枠組みに自分を押し込めて、泣いている振りをしている、振り、振り、十分な客観性があるはずなのに、あえて浅はかな主観の世界に逃げ込もうとしている。どうして、どうしてそんな子どもじみた真似をするんだい。安心感がほしいのかい、そうだ、そうだよ。安心したい。とっくに自分は一貫した存在でないことなど、世界は自分のためにととのえられていないことなど理解しているはずなのに、それでも一貫性に逃げる。一貫性の中で傷ついた傷ついたと嘆いて物語の中にカオスを押しくるめて思考停止しようとしている。それがほんとうにしょうもない。お前は何がやりたい、メタでいたいんだろう、意識の領域を広げて、自然体を意識でやりたいんだろう。その上で自分という一貫したキャラクターを確立して、社会性をやりたいんだろう。自分の足で立ちたいんだろう。そこまでわかって甘えてどうする。これから迫り来るクソデカに怯えているのか、お前今何歳だよ、死ぬとか死なないとかそういう話をしてる場合じゃねえ、突っ込め、脱ぎ捨てろ、しょうもねえ

圧倒的な主観性に身を任せたいです、それが自然体であり、それを探すための理性、客観視、言語化である。正しさの領域に自分を隠しておくためじゃない。それだけは忘れんな

足立

もっとおもしろくなりたいです