2年noteを続けてわかった、「私はひとりじゃない」

どうも~千夏です。
今回は友だちの少なかった私がnoteを続けていて感じた「ひとりじゃない」感覚について書きます。

ひとりじゃないなんて当たり前じゃんという人もいるだろう。
反対にいやいや独りじゃん、人間あの世に行くときは独りだしと思う人もいるだろう。
でもどちらもある意味では間違っていなくてこれらは矛盾していないと思う。
「周りには人がいる」ので、一人ではない。
でも周りの人は周りでしかなく、自分を直接動かせるのは自分だけ。
自分としてしか生きることが出来ないし、常に感覚を共有できる人なんていない。

noteを続けていくと様々な考えを持つ人に出会う。
記事に対していや私も…!となることばかりではないけれど共通点は見つかる人のほうが多い。

そうすると自分だけが持つものと思い込んでいたものがそうではないのかもと思うようになる。
そして生きていても悪くないかも、と思う。
そう思い続けて書いていったらあっという間に2年が経っていた。

これまでどんなに命の大切さを教えてもらっても、「感動系ドラマ」を見ても私は命の尊さや幸せを感じることができなかった。

noteを始めるまでは出会ったことのない幻の友だち(想像)に「私がいるよ」「どんなあなただだって良いよ」と言ってほしいと思っていた。

でもそんな相手はいなかったし、そんなコメントをたとえもらっても私はその言葉を素直に受け取ることは出来なかったと思う。

代わりに私が見つけたのは生きることとその生きづらさと葛藤する人の赤裸々な文章だったり、今を幸せだと感じてその気づきを大切に記録し続ける人の少々コミカルな文章だったり、時事問題でネタを書き続けているネタクリエイターさんだった。
ある方の記事を読んで「自分の悩みを認めて良いんだ」と思えるようになった。寄り添ってもらったというよりそっと掬い上げられた。
その文章を書いた方にはコメントでお礼を述べ今でも自分の悩みを認められない時そっと読み返している。

誰もあなたはひとりじゃないよなんて言わないけれど、色んな人がいることを知れてどこかホッとする。

ほっこりするようなことも書けないし、私はジェットコースターに乗ってキャーと叫べるような純粋さもないし、文才もないし、知識もない。

だけど「ひとりじゃないよ」と言い続けることはできる。
誰かにそっと寄り添って、「大丈夫だよ」とささやくようなそんなきれいなものでは決してない。

私は誰も直接的には肯定していないし否定もしていない。私の言いたいことはたった一つ。

「こういう人もいるよ」


それは「こういう人もいて、あなただって「こういう人」になることもあるし、ならないこともあるよ」というメッセージなのだ。

「こういう人」の中身は文章によって違う。
「ある広告を眺めて良いなあと惚れる人」だったり、「自分への優しさでかけてもらった言葉にモヤモヤする人」だったり、「過去への見方を変えようとする人」だったり、「ある人の魅力に気づいてそこからエネルギーをもらえる人」だったりとたくさんある。

(一番多いのは「変わり者だと決めつけられたくないけど認めざるを得ないから公開してしまおうとする人」で次が「今悩んでいることがあってその悩みを解決できずにいるけどせめてその葛藤を昇華させたい人」だ。)

この曖昧で感動させはしない、ちょっと他人を突き放したみたいな私のメッセージを受け取った人(つまり読者の方)はどう解釈してもいいと思う。

「解釈する」
つまりそれほどに読者にメッセージを委ねているということである。

家の壁を取っ払って初めて他の人が暮らしているんだと分かるように、
noteも直接的ではないけれどなんとなく他の人の暮らしをすりガラス越し程度に見ることができる。
すりガラスの中は、見えない部分については想像をしてもらうしかないけれどそれで良い。

なんとなく「ひとりじゃない」が分かる安心感が私を勇気づけてくれた。

本の話、日記の話、日常での独り言と気づき、過去の後悔、生きづらさ、素敵な人の話。

ありとあらゆることを文字数を気にせず記録した。

今月の18日に「千夏」は2才になります。
本当は18日に出すべきなんだろうけれど、その日は電波の弱い祖母の家に行くので少しフライングしました。
どうぞこれからもよろしくお願いします。

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