かわいそう〔3歳9ヶ月〕

*過去の自分のブログの転載です。当時娘は3歳9ヶ月。フォンタン術後2年2ヶ月、酸素卒業から1年8ヶ月、幼稚園の年少さんです。

🍀

<2015/08/23 sun ☁☔>

金曜の日帰り温泉で、久々に「可哀想オバチャン」に遭遇した。

お風呂だしね、すっぽんぽんだしね、術跡丸見せだしね。

でも、なんて言うのかな、もし可哀想ババアに遭遇しても大丈夫だと思えたから行ったのだ。

今の私なら大丈夫。

案の定お風呂で可哀想オバチャンに遭遇。

なんとなく感じがよかったので、今回は「ババア」ではなく「オバチャン」で。

「可愛いわね~。何歳?」から始まって、「あらあら、それどうしたの?」と。

「あ~、生まれつきの心臓病なんで手術してるんです」と答えた。

返ってきた反応はもちろん「あらまあ、そうなの?こんなに小さいのに可哀想にね~」。

来た。

教科書通り(笑)の反応。

可哀想オバチャンにはマニュアルでもあるのか?

でもね、なんとも思わなかった。

相手の口調にもよるのかもしれないけど、なんとも。

あの頃はずっと拒絶してて、言われないようにバリアを張って心を武装して、ふいに浴びせられる「可哀想」にやられてしまわないように常に緊張しながら外に出て、それでも浴びてしまった日には「可哀想じゃないです」と語気を荒げて、ジャックナイフのようだったのにね。

重症心疾患児母歴3年9ヶ月、フォンタン後2年2ヶ月、酸素卒業から1年8ヶ月。

「今」の「私」はなんとも思わない。

もちろん「ん?」とは思う。

だけど「かわいそう」は普通の反応だと思うから。

昨日今日は24時間テレビの日で、心疾患の子も出ると知っていたけど、見なかった。

これは意識して見なかった訳じゃなくて、単にチャンネル争いに勝てなかっただけだけど。

ひたすら録画の妖怪ウォッチだったわ~。

娘ちゃんが生まれてから24時間テレビを見る目線が変わって、毎年書いてるような気がするけど、反対側になった。

今までは健常者側にいたけど、今は違う。

それでも娘ちゃんより大変そうな病気や障害の子のことは、「頑張ってるんだな。スゴいな」と思うと同時に、どうしてもやっぱり「かわいそう」と思ってしまう。

私は娘ちゃんのことしか知らないから、他に言いようがない。

娘ちゃんの経験だけですべてをわかったような気になるのはおこがましくて。

あの頃「可哀想」と思われたくなくて心にバリアを張っていたときでさえ、娘ちゃんより大変そうな子を見れば心の中には「かわいそう」という感情が浮かんでいた。

そんな自分にすら当時はムカついていたけど、今は違う。

他の感情は浮かばないんだとわかった。

だって経験していないんだもん。

大変なところしか想像ができないんだもん。

それでも幸せだなんて、笑顔も幸せもたくさんあるだなんて知らないから。

自分が経験したことのない大変な経験や思いをしてるだろうことまでしか想像が至らないから「かわいそう」としか浮かばない。

仕方ないんだと思った。

それを口に出すか出さないかの違いで、オバチャン世代は何も考えずに口から出ちゃう人が多いから可哀想ババアが多いだけ。

そのことをわかってはいたんだけど、当時はまだそれを受け止められるキャパはなくてね。

ジャックナイフと化していたわけ。

フォンタンを終えて酸素も卒業してむちむちのアグレッシバーに育ってまあまあ普通に幼稚園に通えるようになった今。

かわいそうと思われてもなんでもいいから知ってもらいたい。

そう思えるようになった。

たぶん24時間テレビに出てる人達もそうなんだと思う。

あの人達はたぶん、ある一定のラインをすでに乗り越えた人達。

お涙頂戴でもいい。

知ってほしい。

私達に近しい人に娘ちゃんがそうなのだと知ってもらいたいかどうかは、個人的なことなのでまたちょっと違うんだけど、こういう病気や障害があるのだと社会に知ってもらいたい。

芸能人の嘘くさい涙だってなんだっていい。

その芸能人目当てで見た人の心に病気や障害のことがかすかでも残るかもしれない。

これから先娘ちゃんがカミングアウトしたときに、「あっ、知ってる。テレビで見たよ。そうか、あれなんだ。なのにこんなに元気でスゴいね。」と思ってもらいたい。

それだけで同情や哀れみの「可哀想」は減らせると思う。

だからってその辺で会ったオバチャンにフォンタンとは何ぞやを語ったりはしないけどね。

だけどこれは「今」だから思えること。

とてもじゃないけどそんなことを思えない時期があることは、バッチリ経験してきたからよくわかる。

だからみんなにそう思ってほしいなんて絶対に思わない。

もしあの頃にこんなこと言われたら「そんなの綺麗事だ」と思ったはずだもの。

少し前に可哀想オバチャンに遭遇したことをブログに吐き出していたブロ友さんに、通りすがりの心疾患児母として大先輩の方がコメントをしていた。

「声を掛けてくれた方を拒絶してしまうのはもったいないと思います」と。

そういう人は悪意はなくて、話をすればきっと理解してくれるから、これから先社会で生きていかなくてはならない我が子たちのためにも、拒絶はせずに積極的に交流した方がよい。

確かそんなことが書いてあった。

正論。

本当にそのとおり。

だけど、それは今のその人だから言えること。

今まさにギリギリの緊張感の中で過ごしている人に言うことじゃない。

じゃああなたはその言葉を受け止められずに拒絶していた時期はなかったんですか?

正論で諭されても頭ではわかっても心が受け入れられない時期はなかったんですか?

そう言いたくて仕方なくて、横からメッセとかしたくなってしまった。

しなかったけど。

通りすぎたら忘れちゃうのかな。

正直私も当時の気持ちを忘れてしまってることが多々あって、今真っ只中にいるママ達になんと声をかけたらいいのかわからなくて、コメントができないときもある。

私はそんな通りすぎてしまった先輩のまぶしすぎる言葉が受け入れられなかったタイプだから。

ただ「通りすぎた」のではなく「乗り越えた」のだとわかっていてもね。

そのときそのときで想いは違う。

人によっても違う。

だからこれは「今」の「私」の話。

「こんなに小さいのに可哀想に」と言われて、なんだか久々でちょっとビックリした。

だけど素直に「かわいそう」だと思ってくれたんだと受け止められた。

「そうですね。確かに病気は大変ですけど、幸せに育ててますから、それほどかわいそうではないと思います」と答えられた私は、病児母歴3年9ヶ月としてはグッジョブだと思う。

病気はかわいそう。

だけどそのことで娘ちゃんのすべてがかわいそうになってしまうわけじゃない。

そういうことでOK?

なんだかまとまらなくなっちゃったわ~。

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